2012年01月01日
唯物史観について再論
唯物史観について再論
友人から この間私が展開した「マルクスの唯物史観の定式は正しかった」に対し 批判的意見が寄せられました。
本来 友人の文章をそのまま載せるべきなのですが 友人のOKをとっていないので文章そのものは掲載できません。私が勝手に要約的に短く抜粋した論点しか提示できませんが御了承お願いします。
(1) 友人は「『宣言』や『批判』序文で 唯物史観の基準として所有関係を強調している。しかし…生産手段の所有関係は決して基準とならない。… それは産業資本主義段階までのことだ。… したがって搾取―被搾取関係を含む階級関係が唯物史観の土台の基準として最適と言えよう」と述べています。
所有関係つまり生産手段の所有関係と 資本所有・土地所有対賃労働という「搾取―被搾取関係を含む階級関係」とは 同じことだと思います。同じことの別の表現にすぎないものを 対立的に捉えて、何を言いたいのだろうか 理解に苦しみました。
彼は その根拠として 『資本論』3巻の「生産条件の所有者の直接生産者にたいする直接関係…」「この関係こそは…社会的構造全体の…基礎を見いだすところのものである」という一文を抜粋しています。おそらく 「生産条件の所有者」とその「所有者の直接生産者にたいする直接関係」とは別のモノだと見ておられるのだろうと思います。
確かに この生産手段を誰が所有しているのかという問題と それを根拠に直接の生産者から搾取していることとは 言葉上(範疇・見る側面)は違いますが 所有そのものが搾取の根拠になっているのだから 同じことではないのですか。なぜなら 資本や土地(自然)をただ所有しているだけでは 何の意味もありません。そこに新たな労働が加えられて はじめて 新たな生産物・新価値が作られ、ヒトは生きることが可能となります。他方 いくら労働したくても 生産手段が使えなければ(労働対象がなければ)労働も生産もできないのです。そして 生産物は 本来的には労働によってそれを作った人のものであるのに 資本家や土地所有者は 生産手段の所有を根拠に 生産者(労働者)から搾取・収奪していきます。つまり 生産手段(資本と土地)所有の有無と 新たな生産物・新価値の分配関係とは 同じことなのです。そして 所有者の直接生産者にたいする直接関係が その間に入り、両者をつないでいます。
論理的には 所有⇒関係⇒分配の順、つまり 生産手段を所有していて それから儲けを出すために 労働者を雇い働かせ(直接関係) できた生産物・新価値の一部分を自分のポケットに入れる となりますが 実際は 一つながりのものです。
なぜこのような歪曲された見解になるのか おそらく生産場面を想定しないで考えておられるからではないかと思いますが 「[所有関係で規定できるのは]産業資本主義段階まで」と述べられている点が気になります。
唯物史観の範疇では 産業資本主義段階と帝国主義段階は どちらも資本主義です。資本対賃労働の関係は同じです。両者にある差は 資本主義それ自身の在り方の差です。それは 資本の一形態である利子生み資本(貸付貨幣資本・金融資本)が 帝国主義段階では巨大化し 資本全体のヘゲを握ったということです。利子生み資本は 産業資本のように自ら生産にはタッチしないで 他人に貸しつけて利子をとり、自己増殖していきます。だから資本・土地を所有しているだけで 価値が増えるかのように見えています。特に 最近の利子生み資本は かつてのように現実生産への貸付=投資ではなく 株や債権や為替の取引で、つまり投機で膨大な儲けを出しています。労働者がいなくても儲けがでるかのように見えます。しかし実際には 配当・利子は搾取でえる剰余価値の分配にすぎないので 剰余価値の増大が追求され これまでの労働者の権利は規制緩和のかけ声で打ち捨てられ民衆の生存は自己責任だと無視され 低賃金と非正規雇用に落しこめられています。
この様になったのは 階級関係で見るという視点が運動の側に希薄になったからではないかと考えて 所有関係ではなく階級関係で見るべきだ と主張されているのかなと推測します。しかしそれは 現象に負けて論理を歪曲することになるのではないかと思います。
(2) 友人は「始めに征服ありき論は間違い」と主張され その根拠として「マルクス・エンゲルスは…原始共産社会で たとえ一部族が他の部族を征服しても 剰余労働を生み出す生産力がなく 新たな生産関係が形成され定着しえないなら殺すか追っ払らうことになるだけだ と述べているではないか」と述べています。
5000年前 世界的同時に、大河川の流域という同じ環境で、しかも北緯30~35度のラインで「4大文明(正しくは黄河ではなく長江ですが)」が発生しています。だから階級対立も 同じ頃(その少し前)に生じたと思われます。つまり この時期に それまでになかった新たな条件ができたのです。それは 水田耕作の農耕民の登場と 狩猟民(遊牧民)による農耕民の征服・支配です。それまでの狩猟民(遊牧民)しかいないときは マルクスが言うように「殺すか追っ払らう」だけだったと思います。
階級対立(および国家)は 剰余生産物ができるほど生産力が発展したから生じた論と征服によって生じた論と 論理的・抽象的には対立しているように見えますが 実際は いま述べたように 一つの事柄の二側面なのです。だから 二側面のうち どちらかが欠けても階級対立は発生していません(例えばインカなど中南米の先住民)。その上で言えば 一端発生すれば人は知識となるので 条件が欠ける所でも成立します。
マルクス主義の基礎学習
★ 「価値」について。
価値という言葉は 一般的には 有用なもの(使用価値がある)という意味ですが 経済を問題にする経済学では 売買の基準になる交換価値で考えます。その上で ブルジョア的に使われる場合と マルクス主義とでは まったく異なります。ブルジョア的には 価値とは貨幣量を指していますが マルクス主義では 生産物(商品)で表現される労働量を指します。
この違いは 抽象的に考えると分かりにくいですが 例で考えると実に簡単です。例えば 3ヶ月でできる酒とその酒を3年間寝かせて高価になった酒があるとします。寝かせている間新たな労働がまったく加えられていなくても 今の社会では 美味しくなった分だけ価格・価値は高価になっています。マルクス主義だと 新たな労働がつけ加えられていないので 倉庫代だけが元の価値・価格に加算されます。そして 今の社会で高価になった分(差額)は 実体のない架空性が生じたと考えます。
また 現在の投機社会で 株や債権など金融商品の売買だけで大儲けしたとき ブルジョア的には価値を増やしたと言われますが マルクス主義では 新たな労働がなかったので 社会の価値量はもとのままで、変わったとはみなしません。株や債権など金融商品の価格(時価)の変動は 直接的にはその会社の生産と何の関係もないので 存在そのものが実体経済ではなく架空の領域にあります。
労働によって価値は作られるという見解を 労働価値説といいます。ただ少なからずの人が 労働に価値があるという意味だと誤解されています(結果と過程の違い)。この考えはマルクス主義の基本ですが マルクスの「仮説」ではなく 日々世界的に行われている事実・真理です。現社会の統計でも GDP国内総生産として 社会の富の実体を表すものとして 使われています(完全なイコールではありません)。
だから 労働価値説に立つためには 実体と架空を区別することが必要なのです。そして 架空は「架空」という名前のとおり観念そのものであり この区別をなくし一緒にして考えるブルジョア的思考は それ故観念論と言えます。
★ 「価値」と「生産的労働」について。
価値とは マルクス主義で言えば 生産物(商品)に堆積された労働です。だから 両者は同じものだと思いがちですが 正しくは 価値<生産的労働、つまり生産的労働の方が範囲が広いのです。価値は生産的労働の堆積物ですが 価値物を作らない生産的労働(有用な労働)は結構いろいろあります。特に 教育や福祉・医療・介護など対人労働は 必要な有用労働ですが 価値が生まれたとは見なされません。なぜなら 対人労働の場合投入労働量とその結果とが一対一的には直対応していないからであり また人間は商品の様に交換可能ではないからです。人間の再生産は 社会が存続するための最低条件なので対人労働は生産的で有用な労働ですが 価値を生んだとは考えません。家事労働も 生きるための生産的な労働ですが 個人的労働であって社会的労働ではない(商品にはならない、商品になったら家事労働とは呼ばない)ので 価値を生んだとは見なしません。
★ 「運輸労働」について
「運輸労働は価値を作っているのか、否か」という議論がよくあります。『資本論』Ⅱ巻1章に 「ところが 生産過程の生産物が新たな対象的生産物でなく、商品でないような自立的な産業諸部門がある。そのうちで経済的に重要なのは 交通業―商品や人間のための運輸業であるか、報道・手紙・電信などの伝達であるかをとわない―だけである」(河出書房の長谷部訳P45)と書かれています。つまり 運輸業と通信業は 例外的に生産物(商品)としてはあらわれない価値を作っているのです。
続けて マルクスは「運輸業が販売するのは、場所変更そのものである。… 人間や商品は、運輸手段とともに旅する。そして運輸手段の旅こそは、運輸手段によってひきおこされる生産過程である」(P46)と 一般的な生産物(商品)に対応するものは 運輸業では「場所変更」だと明らかにしています。
また6章では「商品の形態転化からのみ生ずるすべての流通費は商品に価値を追加しない…これは一般的法則である。この費用は…資本制的生産の空費に属する。…剰余価値からの控除をなす」(P115)と 売買としておこなわれる一般的な流通費をどう考えるのかを明らかにした後 流通費としても例外的な運輸費について 「諸物の使用価値はそれらの消費においてのみ実現されるのであって、諸物の消費は、それらの場所変化を、つまり運輸業という追加的生産過程を必要とする…。だから 運輸業に投下された生産資本は、運輸された生産物に価値を追加する」と説明しています。
つまり 運輸労働は 価値を作っているが 例外的に その価値を表す生産物はモノではなく場所変更だということです。
友人から この間私が展開した「マルクスの唯物史観の定式は正しかった」に対し 批判的意見が寄せられました。
本来 友人の文章をそのまま載せるべきなのですが 友人のOKをとっていないので文章そのものは掲載できません。私が勝手に要約的に短く抜粋した論点しか提示できませんが御了承お願いします。
(1) 友人は「『宣言』や『批判』序文で 唯物史観の基準として所有関係を強調している。しかし…生産手段の所有関係は決して基準とならない。… それは産業資本主義段階までのことだ。… したがって搾取―被搾取関係を含む階級関係が唯物史観の土台の基準として最適と言えよう」と述べています。
所有関係つまり生産手段の所有関係と 資本所有・土地所有対賃労働という「搾取―被搾取関係を含む階級関係」とは 同じことだと思います。同じことの別の表現にすぎないものを 対立的に捉えて、何を言いたいのだろうか 理解に苦しみました。
彼は その根拠として 『資本論』3巻の「生産条件の所有者の直接生産者にたいする直接関係…」「この関係こそは…社会的構造全体の…基礎を見いだすところのものである」という一文を抜粋しています。おそらく 「生産条件の所有者」とその「所有者の直接生産者にたいする直接関係」とは別のモノだと見ておられるのだろうと思います。
確かに この生産手段を誰が所有しているのかという問題と それを根拠に直接の生産者から搾取していることとは 言葉上(範疇・見る側面)は違いますが 所有そのものが搾取の根拠になっているのだから 同じことではないのですか。なぜなら 資本や土地(自然)をただ所有しているだけでは 何の意味もありません。そこに新たな労働が加えられて はじめて 新たな生産物・新価値が作られ、ヒトは生きることが可能となります。他方 いくら労働したくても 生産手段が使えなければ(労働対象がなければ)労働も生産もできないのです。そして 生産物は 本来的には労働によってそれを作った人のものであるのに 資本家や土地所有者は 生産手段の所有を根拠に 生産者(労働者)から搾取・収奪していきます。つまり 生産手段(資本と土地)所有の有無と 新たな生産物・新価値の分配関係とは 同じことなのです。そして 所有者の直接生産者にたいする直接関係が その間に入り、両者をつないでいます。
論理的には 所有⇒関係⇒分配の順、つまり 生産手段を所有していて それから儲けを出すために 労働者を雇い働かせ(直接関係) できた生産物・新価値の一部分を自分のポケットに入れる となりますが 実際は 一つながりのものです。
なぜこのような歪曲された見解になるのか おそらく生産場面を想定しないで考えておられるからではないかと思いますが 「[所有関係で規定できるのは]産業資本主義段階まで」と述べられている点が気になります。
唯物史観の範疇では 産業資本主義段階と帝国主義段階は どちらも資本主義です。資本対賃労働の関係は同じです。両者にある差は 資本主義それ自身の在り方の差です。それは 資本の一形態である利子生み資本(貸付貨幣資本・金融資本)が 帝国主義段階では巨大化し 資本全体のヘゲを握ったということです。利子生み資本は 産業資本のように自ら生産にはタッチしないで 他人に貸しつけて利子をとり、自己増殖していきます。だから資本・土地を所有しているだけで 価値が増えるかのように見えています。特に 最近の利子生み資本は かつてのように現実生産への貸付=投資ではなく 株や債権や為替の取引で、つまり投機で膨大な儲けを出しています。労働者がいなくても儲けがでるかのように見えます。しかし実際には 配当・利子は搾取でえる剰余価値の分配にすぎないので 剰余価値の増大が追求され これまでの労働者の権利は規制緩和のかけ声で打ち捨てられ民衆の生存は自己責任だと無視され 低賃金と非正規雇用に落しこめられています。
この様になったのは 階級関係で見るという視点が運動の側に希薄になったからではないかと考えて 所有関係ではなく階級関係で見るべきだ と主張されているのかなと推測します。しかしそれは 現象に負けて論理を歪曲することになるのではないかと思います。
(2) 友人は「始めに征服ありき論は間違い」と主張され その根拠として「マルクス・エンゲルスは…原始共産社会で たとえ一部族が他の部族を征服しても 剰余労働を生み出す生産力がなく 新たな生産関係が形成され定着しえないなら殺すか追っ払らうことになるだけだ と述べているではないか」と述べています。
5000年前 世界的同時に、大河川の流域という同じ環境で、しかも北緯30~35度のラインで「4大文明(正しくは黄河ではなく長江ですが)」が発生しています。だから階級対立も 同じ頃(その少し前)に生じたと思われます。つまり この時期に それまでになかった新たな条件ができたのです。それは 水田耕作の農耕民の登場と 狩猟民(遊牧民)による農耕民の征服・支配です。それまでの狩猟民(遊牧民)しかいないときは マルクスが言うように「殺すか追っ払らう」だけだったと思います。
階級対立(および国家)は 剰余生産物ができるほど生産力が発展したから生じた論と征服によって生じた論と 論理的・抽象的には対立しているように見えますが 実際は いま述べたように 一つの事柄の二側面なのです。だから 二側面のうち どちらかが欠けても階級対立は発生していません(例えばインカなど中南米の先住民)。その上で言えば 一端発生すれば人は知識となるので 条件が欠ける所でも成立します。
マルクス主義の基礎学習
★ 「価値」について。
価値という言葉は 一般的には 有用なもの(使用価値がある)という意味ですが 経済を問題にする経済学では 売買の基準になる交換価値で考えます。その上で ブルジョア的に使われる場合と マルクス主義とでは まったく異なります。ブルジョア的には 価値とは貨幣量を指していますが マルクス主義では 生産物(商品)で表現される労働量を指します。
この違いは 抽象的に考えると分かりにくいですが 例で考えると実に簡単です。例えば 3ヶ月でできる酒とその酒を3年間寝かせて高価になった酒があるとします。寝かせている間新たな労働がまったく加えられていなくても 今の社会では 美味しくなった分だけ価格・価値は高価になっています。マルクス主義だと 新たな労働がつけ加えられていないので 倉庫代だけが元の価値・価格に加算されます。そして 今の社会で高価になった分(差額)は 実体のない架空性が生じたと考えます。
また 現在の投機社会で 株や債権など金融商品の売買だけで大儲けしたとき ブルジョア的には価値を増やしたと言われますが マルクス主義では 新たな労働がなかったので 社会の価値量はもとのままで、変わったとはみなしません。株や債権など金融商品の価格(時価)の変動は 直接的にはその会社の生産と何の関係もないので 存在そのものが実体経済ではなく架空の領域にあります。
労働によって価値は作られるという見解を 労働価値説といいます。ただ少なからずの人が 労働に価値があるという意味だと誤解されています(結果と過程の違い)。この考えはマルクス主義の基本ですが マルクスの「仮説」ではなく 日々世界的に行われている事実・真理です。現社会の統計でも GDP国内総生産として 社会の富の実体を表すものとして 使われています(完全なイコールではありません)。
だから 労働価値説に立つためには 実体と架空を区別することが必要なのです。そして 架空は「架空」という名前のとおり観念そのものであり この区別をなくし一緒にして考えるブルジョア的思考は それ故観念論と言えます。
★ 「価値」と「生産的労働」について。
価値とは マルクス主義で言えば 生産物(商品)に堆積された労働です。だから 両者は同じものだと思いがちですが 正しくは 価値<生産的労働、つまり生産的労働の方が範囲が広いのです。価値は生産的労働の堆積物ですが 価値物を作らない生産的労働(有用な労働)は結構いろいろあります。特に 教育や福祉・医療・介護など対人労働は 必要な有用労働ですが 価値が生まれたとは見なされません。なぜなら 対人労働の場合投入労働量とその結果とが一対一的には直対応していないからであり また人間は商品の様に交換可能ではないからです。人間の再生産は 社会が存続するための最低条件なので対人労働は生産的で有用な労働ですが 価値を生んだとは考えません。家事労働も 生きるための生産的な労働ですが 個人的労働であって社会的労働ではない(商品にはならない、商品になったら家事労働とは呼ばない)ので 価値を生んだとは見なしません。
★ 「運輸労働」について
「運輸労働は価値を作っているのか、否か」という議論がよくあります。『資本論』Ⅱ巻1章に 「ところが 生産過程の生産物が新たな対象的生産物でなく、商品でないような自立的な産業諸部門がある。そのうちで経済的に重要なのは 交通業―商品や人間のための運輸業であるか、報道・手紙・電信などの伝達であるかをとわない―だけである」(河出書房の長谷部訳P45)と書かれています。つまり 運輸業と通信業は 例外的に生産物(商品)としてはあらわれない価値を作っているのです。
続けて マルクスは「運輸業が販売するのは、場所変更そのものである。… 人間や商品は、運輸手段とともに旅する。そして運輸手段の旅こそは、運輸手段によってひきおこされる生産過程である」(P46)と 一般的な生産物(商品)に対応するものは 運輸業では「場所変更」だと明らかにしています。
また6章では「商品の形態転化からのみ生ずるすべての流通費は商品に価値を追加しない…これは一般的法則である。この費用は…資本制的生産の空費に属する。…剰余価値からの控除をなす」(P115)と 売買としておこなわれる一般的な流通費をどう考えるのかを明らかにした後 流通費としても例外的な運輸費について 「諸物の使用価値はそれらの消費においてのみ実現されるのであって、諸物の消費は、それらの場所変化を、つまり運輸業という追加的生産過程を必要とする…。だから 運輸業に投下された生産資本は、運輸された生産物に価値を追加する」と説明しています。
つまり 運輸労働は 価値を作っているが 例外的に その価値を表す生産物はモノではなく場所変更だということです。
2011年12月04日
『資本論』Ⅲ巻第7篇 を読んで
『資本論』Ⅲ巻第7篇 を読んで
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11月20日すぎから1週間近く風邪で寝込んでいたので この原稿を書くのが大幅に遅れ この『通信』の発行も5日にずれこみ 大変失礼しました。市販の風邪薬とたまたま手に入った抗生物質を飲んだのですが ほとんど効き目がないのでウイルス性の風邪だろうと判断して 「体力勝負」に負けてはならじと 食っちゃ寝を繰り返していました。
『資本論』Ⅲ巻第7篇・収入とその源泉 は 48~52の5章からなっていますが 一般的には「おわりに」にあたるところで Ⅰ巻・Ⅱ巻・Ⅲ巻で全面的に解明した資本主義の運動法則(過剰な利子生み資本を発生させ大恐慌=一大破局でもって終る)の説明のポイントを ブルジョア経済学を批判する形をとって確認しているところです。いわばこの篇自身がまとめにあたり それをあえて短くまとめると何も残らなくなるので 一段落ごとにああそうだったなと再確認しながら読んでいく篇だと思います。読んでいてフムフムと思ったところを(それゆえ横道にそれますが) 何点かあげたいと思います。
第48章・三位一体的範式 で マルクスは「自由の領域は 窮迫と外的合目的性とによって規定される労働がなくなるところで 初めて始まる。この領域内での自由は 社会化された人間・結合した生産者たちが 盲目的(ママ)な力によって支配されるかわりに この質料変換を合理的に規制し 共同的統制のもとにおくという点にのみありうる。だがこれは依然として必然の領域である。必然の領域の彼岸において 自己目的として行われる人間の力の発展が 真の自由の領域がはじまる。労働日の短縮は根本的条件である。」と展開しています。
これは マルクスの未来社会の基本概念(共同統制という合理的必然段階と真の自由の領域とに区別)で レーニンが『国家と革命』で 共産主義の第一段階・第二段階と定式化した根拠になった部分だと思います。だが ここのポイントは 「結合した生産者(今の資本に雇われた労働者ではなく、生産=労働している人のこと)たちが 合理的に規制し共同的統制のもとにおくという点にのみありうる」という点です。これは第一段階について述べているのですが 生産者と生産との関係を展開しています。しかも「…点にのみありうる」と 核心がここにあることを強調しています。つまり 一般的に言われている「平等な分配」=消費面ではなく 生産協同組合という生産者=労働者の生産のあり方で展開しています(平等な分配はこの協同組合的生産の結果です)。
関連する論点として マルクスは 『資本論』Ⅲ巻第29章で「労働者たち自身の協同組合工場は 旧来の形態の最初の突破である。資本と労働の対立は その工場内では止揚されている。… 資本制的株式企業は 協同組合工場と同じように 資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって」と述べています。マルクスは未来社会を組合的生産様式と規定し 過渡期あるいは資本主義下でも資本を排除した部分においては「資本と労働の対立は止揚されている」ので 協同組合工場として運営していくべきだと明らかにしています。
かつてマルクスは 『共産党宣言』で「プロレタリア階級は その政治的支配を利用して ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い すべての生産用具を国家の手に すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し」と 未来社会および過渡期においては 生産手段の国有化が基本だと展開していました。
だがいま見たように 『資本論』では 過渡期および未来社会について 生産協同組合による生産が核心であることが提起されています。また 世界史上初の労働者権力であるパリ・コミューンをあつかった『フランスの内乱』は コミューンの生産協同組合(化運動)を核心的テーマの一つにすえています。
明らかに マルクス自身の未来社会を考える視点が 客体(生産手段の国有化)から主体(結合した生産者による生産=生産協同組合)に転換していると言えます。
だが残念ながら これまで マルクスのこの転換はほとんど注目されませんでした。だから 多くの左翼党派は 『宣言』にしたがって 生産手段の国有化にむけ国家権力を掌握することが第一の任務と考えてきました。暴力革命から議会を通じての政権奪取まで その色合いはいろいろありますが 国家権力を掌握することが一切だという点では 皆同じだったと思います。
ここに これまでの左翼の根底的な誤りがあると思います。言いかえれば 真に革命を成し遂げようとしたら この転換が理解できなければダメだと思います。もちろん私は 初期のマルクスも『宣言』も間違っていたとは考えてはいません。しかし 国家権力を掌握することが第一の任務と考えてきた人たちは 革命党あるいは革命軍が革命を実現するのであって、労働者・民衆自身が革命を実現するのだとは考えてこなかった そこまでは言えないとしても希薄だったと思います(私もその一人でしたが)。革命は 労働者・民衆自身がやるものです。革命をやろうと呼びかけている党派が 革命の主体は労働者・民衆であることを結果的にであれ否定して どうして革命が可能なのかです。
マルクスが『宣言』を書いたときは まだ革命の実現は現実の問題にもなっていませんでした。だから 『宣言』は一般論的に書かれています。しかし20数年後革命が現実の問題になったとき マルクスは革命実現の観点からその一般論をより厳密化したのです。そこをおさえないで 我々は革命の時代に生きているなどと言えないでしょう。
ソ連崩壊の例を見れば 説明の必要はないと思います。ソ連は計画経済でしたが それは 国家官僚たちが机上で決めた計画を 労働者・民衆にノルマで押しつけるというものでした。その結果 労働者・民衆の労働意欲がしだいに失われ 労働の生産性は低下していきました。それがソ連崩壊の主要な原因の一つであります。未来社会は労働者・民衆が真に生産の、そして社会の主人公になることだと思います。
第49章・生産過程の分析のために の最後に 「資本制的生産様式の止揚後も 社会的生産が維持されておれば 価値規定は 労働時間の規制および相異なる諸生産群の間での社会的労働の配分 これらに関する簿記が従来よりも重要となるという意味で 依然として重きをなす。」と述べています。つまり 未来社会では価値法則は廃絶されているが、価値規定は生産物の(再生産および交換の)単位として残っている ということです。
だが 少なからずの人が この点を正確に理解しているとは言いがたいです。価値規定が残るのだから価値法則も残るのだろうとか 価値法則が廃絶されるから価値規定もなくなるのではとかの誤解です。
現在 中国やベトナムなどが 計画経済の行き詰まりを突破するために市場経済を採用し 外国資本を取り入れそれなりの発展=資本主義化しています。これを美化して「市場経済を通じての社会主義の実現」が可能であるかのように唱えている人がいますが この人はここを読んだことがないのだろうかと疑います。
市場経済とは商品経済のことであり それが公然と認められていたら(広く自由におこなわれていたら)当然価値法則が働きます。他方 計画経済のもとでのヤミ市では商品の売買は行われていますが 計画経済の配給品の価格が恣意的に決められていて ヤミ市の商品はそれに引きづられるので 価値法則は貫徹していません。もちろん骨董品も 価値法則は貫徹しません。
問題は 中国やベトナムを 何と規定するのかということです。私は生産物が商品として売り買いされているかだけでなく 土地の実質的売買まで認めたとき 資本主義化したと言いきるべきだと考えています。日本も明治に資本主義化するにあたって 税金の物納から金納への転換と土地の売買を解禁しました。もちろん中国の政治権力は共産党というスターリン主義者です。中国の土地所有権は 国家(都市部)または集団(農村部)にありますが 使用権(数十年の単位)という形で借りて使うことができます。国家所有の土地は 払下使用権または割当使用権として手に入れるのですが 払下使用権の土地は 譲渡や賃貸が可能だそうです。所有権とは その生産物の自由処分権を意味するのですが 土地は不動産と言われるように移動させることはできず 壊すことも捨てることもできないので(東電は福島の土地を壊しましたが) 本来的に土地には有り得ない概念で 資本主義下での生産物=商品に似せて言っている概念にすぎません。だから土地の所有権と言っても その土地の使用権=利用する権利しか意味しないのです。だから 土地の使用権の譲渡・賃貸を認めていて その譲渡・賃貸が広く行われていたら 資本主義国で土地(所有権)の売買を認めていることと同じことなのです。もちろん 中国の所有権云々は 土地は国家が必要とするときには取り上げますよと言える根拠だけは残していますと言っているだけの話で 社会主義とは関係ありません。よってそろそろ中国やベトナムを 国家権力をスターリン主義者が独占している資本主義と規定すべきだと思います。
第51章・分配諸関係と生産諸関係 で 「自然発生的なインド的共同体 人為的に発展したペルー人の共産主義」と書いています。ペルーは文化を発展させてはいるが(原始)共産主義であり インドはまだ共同体が完全には崩壊していない(準)共同体と規定しています。実に正しく規定されていて 少し驚きました。
ミトコンドリアDNA分析から明らかになった現代人の発生史からいって ペルーは狩猟+採取民のみなので階級対立は生じていません。他方インドは 5000年前の古くから狩猟(遊牧)民が農耕民を支配する階級対立が生じていました。だから その後のインドは イギリスが植民地にするまで アジア的生産様式またはその発展としての封建制であったのです。ただ 残存している共同体を「自然発生的な」と言いきっていいのか ビミョウなところです。
一般的に言えば 狩猟民は 支配階級(一種族)内の民主主義と他階級(他種族)に対する奴隷支配が特徴で 農耕民は小家族主義であり 民主主義と奴隷支配のどちらも希薄です。だから農耕民で家族をこえた共同性があるとしたら 原始共産制の崩壊的延長ではなく アジア的生産様式のもとで形成されたものではないのかと思うからです。
大阪市長および大阪府知事選について
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11月27日に 大阪市長と大阪府知事を選ぶ選挙が行われ 橋下と松井が 平松と倉田を 約6対4で破って当選しました。選挙戦の総括そのものは 他の人たちに任せることにして 私はほとんど論点になっていない点で感想を述べます。
一点目。橋下が知事を辞職し選挙戦が実質始まったときに 共産党からの立候補を予定していた渡司が 橋下ファシストに勝利させないためにと立候補を辞退しました。反橋下を闘っていた人たちには好評だったようですが 私はこのニュースを聞いたとき これで平松の勝利はなくなったと思いました。
そう思ったのは 一つは 平松に一本化することで 橋下が主張する改革派対既成勢力の対決という構図を作ってしまったということです。独裁は 多くの人々がそれぞれの立場からそれぞれ反対と言った時に 皆が本当なんだとなるわけで 一対一では単なる互いのレッテル貼りとしか思われないということです。もう一つは 平松は 橋下と違って独自の運動員をもっていません。選挙運動は既成政党や行政に頼るしかなかったのですが この様な人たちは 共産党が応援すればする程引いてしまう人が多いということです。テレビで放映された選挙活動の様子を見ても 平松の運動員は橋下陣営に比べて本当に少なかったと思います。
だから今回 共産党がとるべき方針は 立候補を辞退することではなく 平松とは全く違った論点・切り口で 橋下を投票日の直前までトコトン批判しきることだったと思います。そして可能なら 影流に(非公然に)党員とシンパには平松に投票せよと指示を出すべきだったと思います。共産党が徹底して橋下を批判したとき 橋下と共産党の対立が激烈なほど 中間派の平松に落ち着くという構図が成立すると思うからです。
この点で私が思い出したのは 第二次世界大戦に向かう過程で スターリン主義(共産党)は 社会ファシズム論と人民戦線戦術を 間違って逆の状況で適用したということです。今も変わってないなというのが 率直な感想です。かつて沖縄で 基地問題を焦点にして保革が対立した時には 独自の候補を出して基地反対派を分裂させました。今回の平松と橋下との対立は 保革ではなく同じ保保の対立であるので 立候補辞退は 革からの独自の主張を取り下げたということになります。もちろん 共産党が立候補を取り下げたのは 橋下ファシストに勝たせたくないという思い・善意からだと思いますが やはりスターリン主義としての発想から一歩も抜け出せていないのだなぁと思いました。
もう一点。これは余り大きな声では言えないのですが 日本人は 成功したときには 続けてもう一度と同じパターンを繰り返し 2度目は失敗するということがよくありますが 失敗の時は 1度ではなく2回失敗を繰り返さないと教訓化できない そんな文化なんだなぁとつくづく感じたことです。こんなことを言うと 運動している人からは「何を客観主義、傍観者」と叱られそうですが。
選挙後のテレビで 橋下の主張や宣伝の仕方を小泉と重ね合わせて まったく同じだから今後見守っていかねばと言っていたのがありましたが 投票前はほとんどのテレビは橋下を持ち上げる内容だったので 終ってからやっと気づいたのかね と言いたくなりました。
また 原発事故でも アメリカはスリーマイル島の事故の後原発の新設を一切中止しましたが 日本では福島原発事故の後の現在でも いまだ原発は必要だとの主張を 利害関係のある電力会社や経産省だけでなく 一般の人々まで唱えているのですから。
だから日本での闘いは うまくいった時は繰り返さないで頭をしぼり 失敗した時は再度勝負を挑むのだという二枚腰の強さが問われるのだと思います。
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11月20日すぎから1週間近く風邪で寝込んでいたので この原稿を書くのが大幅に遅れ この『通信』の発行も5日にずれこみ 大変失礼しました。市販の風邪薬とたまたま手に入った抗生物質を飲んだのですが ほとんど効き目がないのでウイルス性の風邪だろうと判断して 「体力勝負」に負けてはならじと 食っちゃ寝を繰り返していました。
『資本論』Ⅲ巻第7篇・収入とその源泉 は 48~52の5章からなっていますが 一般的には「おわりに」にあたるところで Ⅰ巻・Ⅱ巻・Ⅲ巻で全面的に解明した資本主義の運動法則(過剰な利子生み資本を発生させ大恐慌=一大破局でもって終る)の説明のポイントを ブルジョア経済学を批判する形をとって確認しているところです。いわばこの篇自身がまとめにあたり それをあえて短くまとめると何も残らなくなるので 一段落ごとにああそうだったなと再確認しながら読んでいく篇だと思います。読んでいてフムフムと思ったところを(それゆえ横道にそれますが) 何点かあげたいと思います。
第48章・三位一体的範式 で マルクスは「自由の領域は 窮迫と外的合目的性とによって規定される労働がなくなるところで 初めて始まる。この領域内での自由は 社会化された人間・結合した生産者たちが 盲目的(ママ)な力によって支配されるかわりに この質料変換を合理的に規制し 共同的統制のもとにおくという点にのみありうる。だがこれは依然として必然の領域である。必然の領域の彼岸において 自己目的として行われる人間の力の発展が 真の自由の領域がはじまる。労働日の短縮は根本的条件である。」と展開しています。
これは マルクスの未来社会の基本概念(共同統制という合理的必然段階と真の自由の領域とに区別)で レーニンが『国家と革命』で 共産主義の第一段階・第二段階と定式化した根拠になった部分だと思います。だが ここのポイントは 「結合した生産者(今の資本に雇われた労働者ではなく、生産=労働している人のこと)たちが 合理的に規制し共同的統制のもとにおくという点にのみありうる」という点です。これは第一段階について述べているのですが 生産者と生産との関係を展開しています。しかも「…点にのみありうる」と 核心がここにあることを強調しています。つまり 一般的に言われている「平等な分配」=消費面ではなく 生産協同組合という生産者=労働者の生産のあり方で展開しています(平等な分配はこの協同組合的生産の結果です)。
関連する論点として マルクスは 『資本論』Ⅲ巻第29章で「労働者たち自身の協同組合工場は 旧来の形態の最初の突破である。資本と労働の対立は その工場内では止揚されている。… 資本制的株式企業は 協同組合工場と同じように 資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって」と述べています。マルクスは未来社会を組合的生産様式と規定し 過渡期あるいは資本主義下でも資本を排除した部分においては「資本と労働の対立は止揚されている」ので 協同組合工場として運営していくべきだと明らかにしています。
かつてマルクスは 『共産党宣言』で「プロレタリア階級は その政治的支配を利用して ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い すべての生産用具を国家の手に すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し」と 未来社会および過渡期においては 生産手段の国有化が基本だと展開していました。
だがいま見たように 『資本論』では 過渡期および未来社会について 生産協同組合による生産が核心であることが提起されています。また 世界史上初の労働者権力であるパリ・コミューンをあつかった『フランスの内乱』は コミューンの生産協同組合(化運動)を核心的テーマの一つにすえています。
明らかに マルクス自身の未来社会を考える視点が 客体(生産手段の国有化)から主体(結合した生産者による生産=生産協同組合)に転換していると言えます。
だが残念ながら これまで マルクスのこの転換はほとんど注目されませんでした。だから 多くの左翼党派は 『宣言』にしたがって 生産手段の国有化にむけ国家権力を掌握することが第一の任務と考えてきました。暴力革命から議会を通じての政権奪取まで その色合いはいろいろありますが 国家権力を掌握することが一切だという点では 皆同じだったと思います。
ここに これまでの左翼の根底的な誤りがあると思います。言いかえれば 真に革命を成し遂げようとしたら この転換が理解できなければダメだと思います。もちろん私は 初期のマルクスも『宣言』も間違っていたとは考えてはいません。しかし 国家権力を掌握することが第一の任務と考えてきた人たちは 革命党あるいは革命軍が革命を実現するのであって、労働者・民衆自身が革命を実現するのだとは考えてこなかった そこまでは言えないとしても希薄だったと思います(私もその一人でしたが)。革命は 労働者・民衆自身がやるものです。革命をやろうと呼びかけている党派が 革命の主体は労働者・民衆であることを結果的にであれ否定して どうして革命が可能なのかです。
マルクスが『宣言』を書いたときは まだ革命の実現は現実の問題にもなっていませんでした。だから 『宣言』は一般論的に書かれています。しかし20数年後革命が現実の問題になったとき マルクスは革命実現の観点からその一般論をより厳密化したのです。そこをおさえないで 我々は革命の時代に生きているなどと言えないでしょう。
ソ連崩壊の例を見れば 説明の必要はないと思います。ソ連は計画経済でしたが それは 国家官僚たちが机上で決めた計画を 労働者・民衆にノルマで押しつけるというものでした。その結果 労働者・民衆の労働意欲がしだいに失われ 労働の生産性は低下していきました。それがソ連崩壊の主要な原因の一つであります。未来社会は労働者・民衆が真に生産の、そして社会の主人公になることだと思います。
第49章・生産過程の分析のために の最後に 「資本制的生産様式の止揚後も 社会的生産が維持されておれば 価値規定は 労働時間の規制および相異なる諸生産群の間での社会的労働の配分 これらに関する簿記が従来よりも重要となるという意味で 依然として重きをなす。」と述べています。つまり 未来社会では価値法則は廃絶されているが、価値規定は生産物の(再生産および交換の)単位として残っている ということです。
だが 少なからずの人が この点を正確に理解しているとは言いがたいです。価値規定が残るのだから価値法則も残るのだろうとか 価値法則が廃絶されるから価値規定もなくなるのではとかの誤解です。
現在 中国やベトナムなどが 計画経済の行き詰まりを突破するために市場経済を採用し 外国資本を取り入れそれなりの発展=資本主義化しています。これを美化して「市場経済を通じての社会主義の実現」が可能であるかのように唱えている人がいますが この人はここを読んだことがないのだろうかと疑います。
市場経済とは商品経済のことであり それが公然と認められていたら(広く自由におこなわれていたら)当然価値法則が働きます。他方 計画経済のもとでのヤミ市では商品の売買は行われていますが 計画経済の配給品の価格が恣意的に決められていて ヤミ市の商品はそれに引きづられるので 価値法則は貫徹していません。もちろん骨董品も 価値法則は貫徹しません。
問題は 中国やベトナムを 何と規定するのかということです。私は生産物が商品として売り買いされているかだけでなく 土地の実質的売買まで認めたとき 資本主義化したと言いきるべきだと考えています。日本も明治に資本主義化するにあたって 税金の物納から金納への転換と土地の売買を解禁しました。もちろん中国の政治権力は共産党というスターリン主義者です。中国の土地所有権は 国家(都市部)または集団(農村部)にありますが 使用権(数十年の単位)という形で借りて使うことができます。国家所有の土地は 払下使用権または割当使用権として手に入れるのですが 払下使用権の土地は 譲渡や賃貸が可能だそうです。所有権とは その生産物の自由処分権を意味するのですが 土地は不動産と言われるように移動させることはできず 壊すことも捨てることもできないので(東電は福島の土地を壊しましたが) 本来的に土地には有り得ない概念で 資本主義下での生産物=商品に似せて言っている概念にすぎません。だから土地の所有権と言っても その土地の使用権=利用する権利しか意味しないのです。だから 土地の使用権の譲渡・賃貸を認めていて その譲渡・賃貸が広く行われていたら 資本主義国で土地(所有権)の売買を認めていることと同じことなのです。もちろん 中国の所有権云々は 土地は国家が必要とするときには取り上げますよと言える根拠だけは残していますと言っているだけの話で 社会主義とは関係ありません。よってそろそろ中国やベトナムを 国家権力をスターリン主義者が独占している資本主義と規定すべきだと思います。
第51章・分配諸関係と生産諸関係 で 「自然発生的なインド的共同体 人為的に発展したペルー人の共産主義」と書いています。ペルーは文化を発展させてはいるが(原始)共産主義であり インドはまだ共同体が完全には崩壊していない(準)共同体と規定しています。実に正しく規定されていて 少し驚きました。
ミトコンドリアDNA分析から明らかになった現代人の発生史からいって ペルーは狩猟+採取民のみなので階級対立は生じていません。他方インドは 5000年前の古くから狩猟(遊牧)民が農耕民を支配する階級対立が生じていました。だから その後のインドは イギリスが植民地にするまで アジア的生産様式またはその発展としての封建制であったのです。ただ 残存している共同体を「自然発生的な」と言いきっていいのか ビミョウなところです。
一般的に言えば 狩猟民は 支配階級(一種族)内の民主主義と他階級(他種族)に対する奴隷支配が特徴で 農耕民は小家族主義であり 民主主義と奴隷支配のどちらも希薄です。だから農耕民で家族をこえた共同性があるとしたら 原始共産制の崩壊的延長ではなく アジア的生産様式のもとで形成されたものではないのかと思うからです。
大阪市長および大阪府知事選について
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11月27日に 大阪市長と大阪府知事を選ぶ選挙が行われ 橋下と松井が 平松と倉田を 約6対4で破って当選しました。選挙戦の総括そのものは 他の人たちに任せることにして 私はほとんど論点になっていない点で感想を述べます。
一点目。橋下が知事を辞職し選挙戦が実質始まったときに 共産党からの立候補を予定していた渡司が 橋下ファシストに勝利させないためにと立候補を辞退しました。反橋下を闘っていた人たちには好評だったようですが 私はこのニュースを聞いたとき これで平松の勝利はなくなったと思いました。
そう思ったのは 一つは 平松に一本化することで 橋下が主張する改革派対既成勢力の対決という構図を作ってしまったということです。独裁は 多くの人々がそれぞれの立場からそれぞれ反対と言った時に 皆が本当なんだとなるわけで 一対一では単なる互いのレッテル貼りとしか思われないということです。もう一つは 平松は 橋下と違って独自の運動員をもっていません。選挙運動は既成政党や行政に頼るしかなかったのですが この様な人たちは 共産党が応援すればする程引いてしまう人が多いということです。テレビで放映された選挙活動の様子を見ても 平松の運動員は橋下陣営に比べて本当に少なかったと思います。
だから今回 共産党がとるべき方針は 立候補を辞退することではなく 平松とは全く違った論点・切り口で 橋下を投票日の直前までトコトン批判しきることだったと思います。そして可能なら 影流に(非公然に)党員とシンパには平松に投票せよと指示を出すべきだったと思います。共産党が徹底して橋下を批判したとき 橋下と共産党の対立が激烈なほど 中間派の平松に落ち着くという構図が成立すると思うからです。
この点で私が思い出したのは 第二次世界大戦に向かう過程で スターリン主義(共産党)は 社会ファシズム論と人民戦線戦術を 間違って逆の状況で適用したということです。今も変わってないなというのが 率直な感想です。かつて沖縄で 基地問題を焦点にして保革が対立した時には 独自の候補を出して基地反対派を分裂させました。今回の平松と橋下との対立は 保革ではなく同じ保保の対立であるので 立候補辞退は 革からの独自の主張を取り下げたということになります。もちろん 共産党が立候補を取り下げたのは 橋下ファシストに勝たせたくないという思い・善意からだと思いますが やはりスターリン主義としての発想から一歩も抜け出せていないのだなぁと思いました。
もう一点。これは余り大きな声では言えないのですが 日本人は 成功したときには 続けてもう一度と同じパターンを繰り返し 2度目は失敗するということがよくありますが 失敗の時は 1度ではなく2回失敗を繰り返さないと教訓化できない そんな文化なんだなぁとつくづく感じたことです。こんなことを言うと 運動している人からは「何を客観主義、傍観者」と叱られそうですが。
選挙後のテレビで 橋下の主張や宣伝の仕方を小泉と重ね合わせて まったく同じだから今後見守っていかねばと言っていたのがありましたが 投票前はほとんどのテレビは橋下を持ち上げる内容だったので 終ってからやっと気づいたのかね と言いたくなりました。
また 原発事故でも アメリカはスリーマイル島の事故の後原発の新設を一切中止しましたが 日本では福島原発事故の後の現在でも いまだ原発は必要だとの主張を 利害関係のある電力会社や経産省だけでなく 一般の人々まで唱えているのですから。
だから日本での闘いは うまくいった時は繰り返さないで頭をしぼり 失敗した時は再度勝負を挑むのだという二枚腰の強さが問われるのだと思います。
