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Posted by TI-DA at

2011年12月04日

『資本論』Ⅲ巻第7篇 を読んで

 『資本論』Ⅲ巻第7篇 を読んで
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 11月20日すぎから1週間近く風邪で寝込んでいたので この原稿を書くのが大幅に遅れ この『通信』の発行も5日にずれこみ 大変失礼しました。市販の風邪薬とたまたま手に入った抗生物質を飲んだのですが ほとんど効き目がないのでウイルス性の風邪だろうと判断して 「体力勝負」に負けてはならじと 食っちゃ寝を繰り返していました。

 『資本論』Ⅲ巻第7篇・収入とその源泉 は 48~52の5章からなっていますが 一般的には「おわりに」にあたるところで Ⅰ巻・Ⅱ巻・Ⅲ巻で全面的に解明した資本主義の運動法則(過剰な利子生み資本を発生させ大恐慌=一大破局でもって終る)の説明のポイントを ブルジョア経済学を批判する形をとって確認しているところです。いわばこの篇自身がまとめにあたり それをあえて短くまとめると何も残らなくなるので 一段落ごとにああそうだったなと再確認しながら読んでいく篇だと思います。読んでいてフムフムと思ったところを(それゆえ横道にそれますが) 何点かあげたいと思います。

 第48章・三位一体的範式 で マルクスは「自由の領域は 窮迫と外的合目的性とによって規定される労働がなくなるところで 初めて始まる。この領域内での自由は 社会化された人間・結合した生産者たちが 盲目的(ママ)な力によって支配されるかわりに この質料変換を合理的に規制し 共同的統制のもとにおくという点にのみありうる。だがこれは依然として必然の領域である。必然の領域の彼岸において 自己目的として行われる人間の力の発展が 真の自由の領域がはじまる。労働日の短縮は根本的条件である。」と展開しています。
 これは マルクスの未来社会の基本概念(共同統制という合理的必然段階と真の自由の領域とに区別)で レーニンが『国家と革命』で 共産主義の第一段階・第二段階と定式化した根拠になった部分だと思います。だが ここのポイントは 「結合した生産者(今の資本に雇われた労働者ではなく、生産=労働している人のこと)たちが 合理的に規制し共同的統制のもとにおくという点にのみありうる」という点です。これは第一段階について述べているのですが 生産者と生産との関係を展開しています。しかも「…点にのみありうる」と 核心がここにあることを強調しています。つまり 一般的に言われている「平等な分配」=消費面ではなく 生産協同組合という生産者=労働者の生産のあり方で展開しています(平等な分配はこの協同組合的生産の結果です)。
 関連する論点として マルクスは 『資本論』Ⅲ巻第29章で「労働者たち自身の協同組合工場は 旧来の形態の最初の突破である。資本と労働の対立は その工場内では止揚されている。… 資本制的株式企業は 協同組合工場と同じように 資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって」と述べています。マルクスは未来社会を組合的生産様式と規定し 過渡期あるいは資本主義下でも資本を排除した部分においては「資本と労働の対立は止揚されている」ので 協同組合工場として運営していくべきだと明らかにしています。
 かつてマルクスは 『共産党宣言』で「プロレタリア階級は その政治的支配を利用して ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い すべての生産用具を国家の手に すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し」と 未来社会および過渡期においては 生産手段の国有化が基本だと展開していました。
 だがいま見たように 『資本論』では 過渡期および未来社会について 生産協同組合による生産が核心であることが提起されています。また 世界史上初の労働者権力であるパリ・コミューンをあつかった『フランスの内乱』は コミューンの生産協同組合(化運動)を核心的テーマの一つにすえています。
 明らかに マルクス自身の未来社会を考える視点が 客体(生産手段の国有化)から主体(結合した生産者による生産=生産協同組合)に転換していると言えます。
 だが残念ながら これまで マルクスのこの転換はほとんど注目されませんでした。だから 多くの左翼党派は 『宣言』にしたがって 生産手段の国有化にむけ国家権力を掌握することが第一の任務と考えてきました。暴力革命から議会を通じての政権奪取まで その色合いはいろいろありますが 国家権力を掌握することが一切だという点では 皆同じだったと思います。
 ここに これまでの左翼の根底的な誤りがあると思います。言いかえれば 真に革命を成し遂げようとしたら この転換が理解できなければダメだと思います。もちろん私は 初期のマルクスも『宣言』も間違っていたとは考えてはいません。しかし 国家権力を掌握することが第一の任務と考えてきた人たちは 革命党あるいは革命軍が革命を実現するのであって、労働者・民衆自身が革命を実現するのだとは考えてこなかった そこまでは言えないとしても希薄だったと思います(私もその一人でしたが)。革命は 労働者・民衆自身がやるものです。革命をやろうと呼びかけている党派が 革命の主体は労働者・民衆であることを結果的にであれ否定して どうして革命が可能なのかです。
 マルクスが『宣言』を書いたときは まだ革命の実現は現実の問題にもなっていませんでした。だから 『宣言』は一般論的に書かれています。しかし20数年後革命が現実の問題になったとき マルクスは革命実現の観点からその一般論をより厳密化したのです。そこをおさえないで 我々は革命の時代に生きているなどと言えないでしょう。
 ソ連崩壊の例を見れば 説明の必要はないと思います。ソ連は計画経済でしたが それは 国家官僚たちが机上で決めた計画を 労働者・民衆にノルマで押しつけるというものでした。その結果 労働者・民衆の労働意欲がしだいに失われ 労働の生産性は低下していきました。それがソ連崩壊の主要な原因の一つであります。未来社会は労働者・民衆が真に生産の、そして社会の主人公になることだと思います。
 
 第49章・生産過程の分析のために の最後に 「資本制的生産様式の止揚後も 社会的生産が維持されておれば 価値規定は 労働時間の規制および相異なる諸生産群の間での社会的労働の配分 これらに関する簿記が従来よりも重要となるという意味で 依然として重きをなす。」と述べています。つまり 未来社会では価値法則は廃絶されているが、価値規定は生産物の(再生産および交換の)単位として残っている ということです。
 だが 少なからずの人が この点を正確に理解しているとは言いがたいです。価値規定が残るのだから価値法則も残るのだろうとか 価値法則が廃絶されるから価値規定もなくなるのではとかの誤解です。
 現在 中国やベトナムなどが 計画経済の行き詰まりを突破するために市場経済を採用し 外国資本を取り入れそれなりの発展=資本主義化しています。これを美化して「市場経済を通じての社会主義の実現」が可能であるかのように唱えている人がいますが この人はここを読んだことがないのだろうかと疑います。
 市場経済とは商品経済のことであり それが公然と認められていたら(広く自由におこなわれていたら)当然価値法則が働きます。他方 計画経済のもとでのヤミ市では商品の売買は行われていますが 計画経済の配給品の価格が恣意的に決められていて ヤミ市の商品はそれに引きづられるので 価値法則は貫徹していません。もちろん骨董品も 価値法則は貫徹しません。
 問題は 中国やベトナムを 何と規定するのかということです。私は生産物が商品として売り買いされているかだけでなく 土地の実質的売買まで認めたとき 資本主義化したと言いきるべきだと考えています。日本も明治に資本主義化するにあたって 税金の物納から金納への転換と土地の売買を解禁しました。もちろん中国の政治権力は共産党というスターリン主義者です。中国の土地所有権は 国家(都市部)または集団(農村部)にありますが 使用権(数十年の単位)という形で借りて使うことができます。国家所有の土地は 払下使用権または割当使用権として手に入れるのですが 払下使用権の土地は 譲渡や賃貸が可能だそうです。所有権とは その生産物の自由処分権を意味するのですが 土地は不動産と言われるように移動させることはできず 壊すことも捨てることもできないので(東電は福島の土地を壊しましたが) 本来的に土地には有り得ない概念で 資本主義下での生産物=商品に似せて言っている概念にすぎません。だから土地の所有権と言っても その土地の使用権=利用する権利しか意味しないのです。だから 土地の使用権の譲渡・賃貸を認めていて その譲渡・賃貸が広く行われていたら 資本主義国で土地(所有権)の売買を認めていることと同じことなのです。もちろん 中国の所有権云々は 土地は国家が必要とするときには取り上げますよと言える根拠だけは残していますと言っているだけの話で 社会主義とは関係ありません。よってそろそろ中国やベトナムを 国家権力をスターリン主義者が独占している資本主義と規定すべきだと思います。
 
 第51章・分配諸関係と生産諸関係 で 「自然発生的なインド的共同体 人為的に発展したペルー人の共産主義」と書いています。ペルーは文化を発展させてはいるが(原始)共産主義であり インドはまだ共同体が完全には崩壊していない(準)共同体と規定しています。実に正しく規定されていて 少し驚きました。
 ミトコンドリアDNA分析から明らかになった現代人の発生史からいって ペルーは狩猟+採取民のみなので階級対立は生じていません。他方インドは 5000年前の古くから狩猟(遊牧)民が農耕民を支配する階級対立が生じていました。だから その後のインドは イギリスが植民地にするまで アジア的生産様式またはその発展としての封建制であったのです。ただ 残存している共同体を「自然発生的な」と言いきっていいのか ビミョウなところです。
 一般的に言えば 狩猟民は 支配階級(一種族)内の民主主義と他階級(他種族)に対する奴隷支配が特徴で 農耕民は小家族主義であり 民主主義と奴隷支配のどちらも希薄です。だから農耕民で家族をこえた共同性があるとしたら 原始共産制の崩壊的延長ではなく アジア的生産様式のもとで形成されたものではないのかと思うからです。


 大阪市長および大阪府知事選について
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 11月27日に 大阪市長と大阪府知事を選ぶ選挙が行われ 橋下と松井が 平松と倉田を 約6対4で破って当選しました。選挙戦の総括そのものは 他の人たちに任せることにして 私はほとんど論点になっていない点で感想を述べます。
 一点目。橋下が知事を辞職し選挙戦が実質始まったときに 共産党からの立候補を予定していた渡司が 橋下ファシストに勝利させないためにと立候補を辞退しました。反橋下を闘っていた人たちには好評だったようですが 私はこのニュースを聞いたとき これで平松の勝利はなくなったと思いました。
 そう思ったのは 一つは 平松に一本化することで 橋下が主張する改革派対既成勢力の対決という構図を作ってしまったということです。独裁は 多くの人々がそれぞれの立場からそれぞれ反対と言った時に 皆が本当なんだとなるわけで 一対一では単なる互いのレッテル貼りとしか思われないということです。もう一つは 平松は 橋下と違って独自の運動員をもっていません。選挙運動は既成政党や行政に頼るしかなかったのですが この様な人たちは 共産党が応援すればする程引いてしまう人が多いということです。テレビで放映された選挙活動の様子を見ても 平松の運動員は橋下陣営に比べて本当に少なかったと思います。
 だから今回 共産党がとるべき方針は 立候補を辞退することではなく 平松とは全く違った論点・切り口で 橋下を投票日の直前までトコトン批判しきることだったと思います。そして可能なら 影流に(非公然に)党員とシンパには平松に投票せよと指示を出すべきだったと思います。共産党が徹底して橋下を批判したとき 橋下と共産党の対立が激烈なほど 中間派の平松に落ち着くという構図が成立すると思うからです。
 この点で私が思い出したのは 第二次世界大戦に向かう過程で スターリン主義(共産党)は 社会ファシズム論と人民戦線戦術を 間違って逆の状況で適用したということです。今も変わってないなというのが 率直な感想です。かつて沖縄で 基地問題を焦点にして保革が対立した時には 独自の候補を出して基地反対派を分裂させました。今回の平松と橋下との対立は 保革ではなく同じ保保の対立であるので 立候補辞退は 革からの独自の主張を取り下げたということになります。もちろん 共産党が立候補を取り下げたのは 橋下ファシストに勝たせたくないという思い・善意からだと思いますが やはりスターリン主義としての発想から一歩も抜け出せていないのだなぁと思いました。
 もう一点。これは余り大きな声では言えないのですが 日本人は 成功したときには 続けてもう一度と同じパターンを繰り返し 2度目は失敗するということがよくありますが 失敗の時は 1度ではなく2回失敗を繰り返さないと教訓化できない そんな文化なんだなぁとつくづく感じたことです。こんなことを言うと 運動している人からは「何を客観主義、傍観者」と叱られそうですが。
 選挙後のテレビで 橋下の主張や宣伝の仕方を小泉と重ね合わせて まったく同じだから今後見守っていかねばと言っていたのがありましたが 投票前はほとんどのテレビは橋下を持ち上げる内容だったので 終ってからやっと気づいたのかね と言いたくなりました。
 また 原発事故でも アメリカはスリーマイル島の事故の後原発の新設を一切中止しましたが 日本では福島原発事故の後の現在でも いまだ原発は必要だとの主張を 利害関係のある電力会社や経産省だけでなく 一般の人々まで唱えているのですから。
 だから日本での闘いは うまくいった時は繰り返さないで頭をしぼり 失敗した時は再度勝負を挑むのだという二枚腰の強さが問われるのだと思います。

  


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