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わいわい通信

2013年12月01日

読者への返信、レーニン評価について

読者への返信、レーニン評価について
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 「わいわい通信」の読者から ある党派の94年の集会基調報告のコピーを添付し、コメントを求める手紙が送られてきたので 返事を書きました。それを掲載します。コピー部分のテーマは共産主議論・レーニン評価についてです。

 党派の見解を展開している処は 『共産党宣言』『国家と革命』に依拠し、他の党派と似たりよったりなので コピー部分の最後の他党派批判を再録すると
  「今日の自称レーニン主義が、ロシア10月革命の世界史的意義をもった勝利を前提  にして、それを中心で指導したレーニンの不屈の革命性に無批判的に依存する際の立  て方はどうか。ここでは …… 新左翼系のケースについて要言しておく。
   それは、(世界革命の遅延と関連した)一国社会主議論(による世界革命の裏切り  )、さらにトロッキズム系の場合は、これに党内闘争での左翼反対派の敗北を加えて  発生の根拠と路線内容とするにとどまっている。
   レーニン生存期における過渡期路線との関連性は無視され、ヨーロッパ革命の敗北  という重要だが『外的』な問題や党内闘争の敗北という結果的事態(……)などでこ  と足れりとしているにすぎない。とくに多くの場合粛清の問題を軽視し、あるいは党  組織(中央集権主義路線)との関係、ひいては労働者の自立・階級形成の意義の無視、  『外部注入論』理解があり、世界革命の敗北の問題についても、その社会革命の質や  政治支配のあり方の問題に関わる内容ということを依然としてぬきにしている。要す  るに勝てば解決、党内闘争(対スタ党派闘争)に勝てばよい(そのため、スタ以上の  スタ化も辞さない)ということが理論以前に感覚化してしまっていることである。ま  た共通してプロ独を強調しつつ、レーニンの『国家の死滅』をめぐる理論的実践的事  実について、ブハーリンとの論争に端的なように、国家の廃絶を厳密な意味において  はつかんでいない点の批判が欠落しているということである。」

 報告の問題意識は 正しいというか ソ連崩壊後の話なので、当然と言えば当然です。つまり 共産主義者・マルクス主義者であり続けようとする限り スターリン主義の問題としてことたれりと済ますのではなく レーニンのどこが正しくて、どこが間違っているのかを鮮明に仕分けすることが 現時点で(ソ連崩壊後)重要なのだと思います。「国家の廃絶を厳密な意味においてはつかんでいない点の批判が欠落」という論点はその通りなのですが 残念ながら この報告でもそれが出来ているとは思われません。なによりも その基準をどこに置くのかが判明していないように見受けられます。
 ご存じのように レーニンはカウツキーを師としてマルクス主義の世界に飛び込みました。だが 師・先輩と仰いできたドイツの社会民主党(第二インター)は 第一次世界大戦が始まろうとするや それまでの主張をひっくり返し帝国主義戦争に賛成しました。それ故レーニンは 第二インターによって歪められたマルクス主義ではなく 真の正しいマルクス主義(革命のできるマルクス主義)を明らかにすべく マルクスの著作そのものを再読し 『国家と革命』を書き上げたのです。つまり レーニンの思想・理論的遍歴は 社会民主主義(第二インター)として開始され 1913、4年頃から真のマルクス主義に転換しようとして 17年の革命勃発の前に超多忙になり 最後までそれを成し遂げることが出来ずに亡くなったのです(例えば『資本論』の理解―『市場問題によせて』)。だから レーニン以外のボルシェビキの人たちも 第二インターの思想・理論(社会民主主義)から決別できていたとは言いきれないのです。『国家と革命』が公表されたのは革命後です。
 ところで マルクスとエンゲルスは 『ゴータ綱領批判』で明らかなように 当初からドイツの社会民主党(第二インター)はマルクス主義から逸脱していると見なしていました。だから マルクス以降、真のマルクス主義は一時期のレーニンだけなのです。

 ではどの点で レーニンは過去の誤り(社会民主主義)を訂正出来ていなかったのでしょうか。それは未来社会についてです。確かにレーニンは 『国家と革命』の第5章で『ゴータ綱領批判』や『フランスの内乱』のエッセンスを読み取ろうとしていますが 体制(全体)の形態は問題にしていますが 主体(細胞的)のあり方についてはまったく展開していません。この点がレーニンの根本的誤りなのです。パリ・コミューンの闘いでは マルクス派は少数派でした。だから マルクスが『フランスの内乱』や『ゴータ綱領批判』で与えたプロレタリア革命の位置づけ(革命→過渡期→第一段階→高次段階)も重要ですが 最も重要なことは パリ・コミューンの闘いのさなかにマルクスがマルクス派のメンバーに「生産協同組合を創れ」と指示したことです。少数派なのだから 核心中の核心をマルクスは提起したはずです。残念ながらレーニンはこれを読み取れなかったのです。そして マルクス、レーニンの精神を受け継いでいると自称する新左翼も同じです。ソ連の非人民性を批判してきた人・党派は数知れずいますが その誤りの核心がここにあることを掴んでいる人・党派はいません(生産協同組合を研究のテーマにしている人はいますが)。報告も「労働者の自立・階級形成の意義の無視」と抽象レベルにとどまっています。
 生産協同組合は 革命前から(資本主義下でも)、革命―過渡期を経て未来社会・共産主義社会に至るまでの全期間を通じての労働=生産者の組織形態です。資本の支配を喰い破った労働=生産者の組織形態なのです。残念ながら 日本の協同組合は生協=生活・消費協同組合であって 戦後の一時期や港合同(田中機械)をのぞいて 生産協同組合の経験がほとんどありません。生産協同組合の生産手段(資本に相当)は 例え形式的にソビエトやコミューンから借りている形を採っていても(特に革命で手にいれた場合はそうなるが) 利潤や配当はなくなり原価償却の問題だけになるので 組合員自身のものなのです。資本と労働の分離は 生産協同組合では止揚されています。だから私は 「労働者」ではなく「労働=生産者」と表現しています(資本主義で生産者といえば資本をさします)。国有や社会有(ソビエト有やコミューン有)では 生産協同組合がその細胞として成立していないと 生産手段(資本)と労働とは依然として分離したままなのです。
 17年の2月革命後、工場委員会という形で生産協同組合化が(自然発生的に)一気に広がって行きますが 10月革命後レーニンは「労働者統制論」を展開しソビエト権力を使って工場委員会を廃止していきます。行き着いた先は 企業長の個人請負制の官僚主義とノルマ労働です。またレーニンは 革命後協同組合を強調するテーゼなどを書いていますが それらは生活資材分配のための消費協同組合についてです。
 報告でも 「ソビエトの非コミューン的側面(労働者管理の否定と『労働者統制』論・工場長の任命制など)、……」とその誤り(否定面)を指摘していますが その核心が生産協同組合の否定にあるとは論じられていませんし ノルマ労働の指摘は抜けています。
 要は 人民(労働=生産者)が生産現場で 生産協同組合員の共有という形式で生産手段(資本材)を占有・所有し、生産の主人公として登場できない限り 共産主義社会は夢物語にしか過ぎないのです。その上で この未来社会・共産主義社会のあり方が革命前に見すえられていないと 革命そのものも出来ません。レーニンが唯一革命を達成できたのも 主体のあり方という面は欠落していましたが 共産主義社会の全体像を 夢物語としてではなく、実現論として描き出せたからなのです。
 その上で重要な論点が2つあります。1つは 革命後の階級規定です。革命において労働していない地主階級は資本家とともに打倒の対象ですが 農地を所有し自ら働いている自作農は労働=生産者であり 革命後、生産者に転化した「労働者」と同じ階級だということです。もう1つは 革命後、生産物は 価格による売買ではなく、等労働量交換だということです。だから 論理的には(時間で計った労働量においては)自給自足経済と同じなのです。
 革共同中央派は 資本主義の最後的危機=革命を目前にしたいまも「労働者、労働者」と強調し 革命後、労働=生産者に転化するという視点はまったくありません。彼らは「資本あっての労働者」観なのです。
 報告も いろいろレーニンの問題点・否定面をあげていますが この核心点がないのです。それぞれの批判が正しくても この核心点がなければ意味をなさないのです。

 マルクス主義の学習の仕方について 参考までに。一つの思想や理論を追求している人のそれは 当然晩年のものが最も正しいのです。これまで マルクスを初期と後期にわけて 新左翼は初期マルクス、共産党・スターリン主義や社会民主主義(協会派など)は後期マルクスを重視していましたが 私から言わせれば どちらも晩期マルクスが抜け落ちているというか、否定しているのです。1860年代の終わり以降が晩期にあたります。著作では 『資本論』Ⅱ巻3篇、『フランスの内乱』、『ゴータ綱領批判』などです。唯物史観で言えば 新左翼は『ドイツ・イデオロギー』重視ですが 共産党などは『経済学批判』の序文重視です。序文には「アジア的生産様式」という言葉がでてきますが 『ドイツ・イデオロギー』にはでてきません。しかし スターリン主義は アジア的生産様式は奴隷制の一種だとして 一つの生産様式とは認めていません。つまり どちらも 晩期マルクスを否定・無視しているのです。
 後世の私たちが勉強するとしたら 当然完成(到達)した思想・理論から入るべきだと思います。つまり 晩期マルクスを読んで マルクスの完成(到達)した思想・理論をまず理解すべきなのです。つまり 『共産党宣言』『空想より科学』『国家と革命』と共に『経済学批判』の序文、『フランスの内乱』『ゴータ綱領批判』を読んで 当然晩期によって初期を修正しつつ マルクス主義の全体像と核心点をつかみとることだと思います。その上で つかみとった視点でもって他の著作を読むべきだと思います。




Posted by わいわい通信 at 00:04│Comments(0)
 
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