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わいわい通信

2014年01月01日

『展望』13号の榎原論文について

『展望』13号の榎原論文について
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 革共同再建協の『展望』13号に 11号、12号に続いて 榎原均氏の「資本論講義(第3回)」が掲載されています。前2号での「25年も前の、しかもあまりにも部分的な … 学習としても中途半端で、何でこんなものを『展望』に載せるの?(編集部への疑問)」という批判に応えたのか 今号は 前号の続きだけでなく 12年9月の学習会のレポートが掲載されています。だが レポートの前半は これまでの「ソ連崩壊の原理的根拠―なぜ商品・貨幣を廃絶できなかったのか」の要約(『資本論』Ⅰ巻1篇は現行版ではなく初版本で理解すべきとの主張)です。繰り返し展開されているので 榎原氏は核心的論点だと思い込んでおられるようですが 不勉強な私から見ても これでは『資本論』読みのマルクス知らずとしか言いようがありません。レポートの後半は「投機・信用資本主義」論ですが この点でもマルクスの説を本当に理解されたのかはなはだ疑問です。マルクスを正しく(骨格・核心で)理解しないで、思いつきを展開しているとしか 私には見えません。

 榎原論文には 「生産」という言葉・概念はまったく出てきません。そもそも 流通(消費・分配)は生産様式・生産関係の結果であって(結果です!、逆作用はありますが)それ自身を(歴史貫通的に)独立した論理として展開することは マルクスの論じ方ではなく 流通から儲けを引き出そうとするブルジョア経済学と同じになります。また 『資本論』の理解が間違っていたから云々と言ってしまうと 唯物論ではなく観念論になってしまいます。
 『資本論』では Ⅲ巻51章に「資本制的生産様式は、特殊な種類の・独自な歴史的規定性をもつ・生産様式だということ。資本制的生産様式は、…他の生産様式と同じように、社会的生産諸力およびその発展諸形態の一段階を、自己の歴史的条件として前提する。この独自な・歴史的に規定された・生産様式に照応する生産諸関係は、独自な・歴史的で暫定的な・性格をもつということ。および、最後に、分配関係は本質的にはこの生産関係と同じであり、生産関係の裏面であり、したがって、両者ともに同じ歴史的・暫時的な性格をもつということ。」 また「分配関係は、生産関係の、および、人間生活の再生産過程で相互にとりむすぶ諸関係の、歴史的に規定された・独自に社会的な・諸形態に照応し、またこの諸形態から発生する。分配諸関係の歴史的諸性格は、生産関係の歴史的性格である。…各分配形態は、それが由来し照応する規定された生産形態とともに消滅する。」と書かれており マルクスは 貨幣や商品という資本主義の流通形態(消費形態)は 資本主義の生産形態とともに消滅すると述べています。だから 「ソ連はなぜ商品・貨幣を廃絶できなかったのか」を考えるためには 『資本論』をどう理解するかではなく ソ連の生産形態・生産関係を分析しなければだめなのです。
 榎原氏の論理が マルクス主義から逸脱しているというか まったく正反対の観念論であること だから『資本論』を語ってマルクス主義を破壊していることは 上記の抜粋で明らかだと思います。
 『経済学批判』の序文より 生産様式は歴史的に 原始共産制→アジア的生産様式→奴隷制的生産様式→封建的生産様式→資本制的生産様式と変わってきました。もちろん個々の国・地域がそのすべてを歴史的に経過したわけではありませんが。奴隷制的生産様式と資本制的生産様式では 生産物は生産(労働)した生産(労働)者のものではなく、自らは労働しない奴隷所有者や資本家の生産物(所有物)ですが 原始共産制はもちろんのこと アジア的生産様式、封建的生産様式では 後日税として支配者に収奪されますが 生産した瞬間は生産物は生産(労働)者のものです。論理的にはまったく相反しています。資本制的生産を賃金奴隷制と呼ぶのも その点での共通点があるからです。
 歴史的・論理的には 商品・貨幣による流通は(共同体の内部ではなく)各共同体の接するところで生じたと言われていますが 「共同体」内の階級関係(階級対立が存在していると真の共同体とは言えないので「」を付けました)に関連させては論じられてきませんでした。商品・貨幣による流通は 生産(労働)者ではない生産物の所有者によって生じたと思います。原始共産制では 自らが生産した物は自らの物であり、交換は物々交換でしたが アジア的生産様式になって 王と民の階級対立が生じ、生産物の貨幣による流通が生じました。アジア的生産様式においては 民(農民)は自給自足の生活をしており、原始共産制と同じ物々交換だったと思いますが 王(支配階級)は 農民の生産物の一部を税(物納)として収奪し それを支配階級内で分配したり、また装飾品に換えたりするために 商品および貨幣流通が生じたと思います。
 つまり 貨幣による商品流通を破棄するためには 生産物は生産(労働)した者のモノであるという形態に転換させる以外にないのです。言いかえれば 未来社会は 生産(労働)と所有の分離・資本と労働の分離が破棄されたかどうかにかかっています。だから 政治権力奪取のプロレタリア革命は 権力獲得それ自身が目的ではなく 資本制的生産関係を破棄するための手段だということです。そして その生産と所有が一致している形態は 先月号で展開したように 生産協同組合なのです(農業では自作農もそうです)。
 だから問題は プロ独国家による生産手段の国有化は 生産(労働)と所有の分離・資本と労働の分離を破棄した形態なのか否かということになります。国営企業は 資本主義下でも存在します。国営だからと言って これらの分離が破棄・止揚されたとは言えないのです。実際ソ連では 生産手段は国家のものであり 資本と労働は分離したままだったのです。「ノルマ労働」という言葉が それを端的に表しています。だから 商品も貨幣もなくならなかったのです。こういう風に唯物論的に考えるのではなく 『資本論』の理解の問題にしてしまったら マルクス主義とは言えないでしょう。

 榎原論文の第二の誤りは『資本論』の読み方そのものです。私は初版本は読んでいません。しかし 現行版はマルクス自身が書いたもので もし仮に初版本と現行版とで論理的に対立していたら 後から訂正したと考えるのが筋で 現行版の方が正しいとなります。
 『資本論』は Ⅰ巻の1篇と2篇で 商品および商品交換(流通)を分析し 労働の堆積物としての価値を導きだし その価値を実体的に表すものとして貨幣(金)を そしてその貨幣が資本に転化し それ故労働力自身が商品になり 労働力の価値とその労働が創りだす価値との差である剰余価値を搾取することで資本は増大していく ことを明らかにしました。そして3篇以降 下向分析で導きだした結論を展開・発展させ 資本主義社会を解明しています。
 だから 1篇・2篇の下向分析で問われるのは 導きだされた結論が正しいのかどうかです。(下向)分析過程が異なっていても結論が同じであれば どちらの分析過程も正しいのです。初版本を読んでいないので証拠的(何ページのどこに書かれている)には出せませんが 誰も違っているとは言っていないので 現行版と初版本との結論は同じ結論だと思います。
 下向分析とは 例えば 植物や動物の組織を分析して 生物は細胞の集合から成り立っていることを明らかにすることです。その方法が 顕微鏡を覗いて明らかにするか、染色して明らかにするかのどちらが正しいかは 方法によって決まるのではなく 結論である細胞を見つけ出せたか否かで決まるのです。
 もう一つ例えれば 数学・算数の問題で 連立方程式で答えをだそうが、つるかめ算で答えをだそうが 答えが正しければどちらの解き方も正しいのです。それを榎原氏は 連立方程式は正しくて、つるかめ算は間違っていると言っているようなものです。だから榎原氏の主張はトンチンカンとしか言いようがありません。そもそもマルクスは 初版本の説明は分かりにくいと言われ 説明の仕方を変えただけなのですから。
 私は Ⅲ巻15章(恐慌論)1節を読んだとき Ⅱ巻21章(拡大再生産は必ず行き詰まる論)と同じことが書かれているのに なぜマルクスはⅡ巻21章を最後まで(死の直前まで)書けなかったのだろうかと疑問が涌きました。しかしすぐ納得できました。Ⅱ巻21章3節3は断定的に書かれているから Ⅱ巻21章・拡大再生産の、あるいはⅡ巻全体の結論がわからなかったのではなく おそらくその簡単な(例で言えば数学的ではなく算数的な)説明の仕方が見つけだせなかったからと思います。これまで ほとんどの人が「『資本論』は未完成」と言ってきましたが 説明がきちっとできていないところもありますが 結論は書かれています。その結論を読み取れないで マルクスの一方の言葉で他方の言葉を否定するとは 何をか言わんやです。

 レポートの後半で榎原氏は 「投機・信用資本主義」と現代社会の問題性について展開していますが 『資本論』Ⅲ巻の(架空の)貨幣資本論を踏まえないで ブルジョア的な「信用論」に歪曲した理解の上での否定面(投機)を述べているにすぎないということです。
 マルクスは『資本論』Ⅲ巻で 資本循環(景気循環ではない)において資本は 生産資本、商品(流通)資本、貨幣資本の形態をとるが 生産活動に関与したことによる利潤の分け前ではなく、単なる貸付で利子を要求する貸付貨幣資本が循環の外に登場し 発展が行き詰まった生産をより拡大させようとして恐慌が勃発すると展開しています。つまり マルクスは 3分岐それぞれの資本の性質を明らかにして (架空の)貸付貨幣資本が総資本の主軸になったとき資本主義は終わりを迎えると明らかにしているのに 榎原氏も多くの人と同じように「信用論」と言いなすことで 貸付貨幣資本の問題性(生産にはまったく不要なだけでなく、生産そのものを破壊するということ)を読み取るのではなく ブルジョア社会のシステム論にずらしているのです。これでは資本主義を根本で否定しているとは言えません。
 直裁に言えば 投機は「悪」の現象であって 「悪」の実体・本質は架空の貸付貨幣資本だということです。架空性をなくし、実体経済にしなければならないと マルクスは述べているのです。この根本視点が欠落しています。何をなくすべきかを明らかにしなければ 『資本論』を読んだ意味はありません。
 ところで投機とは バクチであり、取引相手をだましてでも自らの儲けを作り出そうとするものです。資本主義の発展が行き詰まる中で 金融資本がなおかつ儲けようとして投機を全面化したため 老人を食い物にするオレオレ詐欺などが世の中に蔓延したのです。つまり ブルジョア同士の信頼を基礎にして成立している信用システムに依存しながら 資本は その信用を破壊する投機=詐欺にかけるしかないという状況にいまや陥っています(何たる論理矛盾!自己否定)。資本主義が終わりに近づいていることを示しています。

 



Posted by わいわい通信 at 00:04│Comments(0)
 
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