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わいわい通信

2014年05月01日

1967~1991

1967~1991
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 「わいわい通信」の読者から すが秀美編『1968』に載っているすがの「序論 1968/1970―そこで始まったこと」のコピーが添付されて、コメントを求める手紙が送られてきたので 返事を書きました。直対応的コメントはしていないので すがの文章の紹介はしません。私のコメントだけを掲載します。

 すが秀美の文章については 書かれている事件に直接かかわった訳ではありませんが、当時の一参加者として 興味深く読ませてもらいました。
 71年7.7自己批判と内ゲバを全共闘運動継承・発展の飛躍・転換点と捉えることはその通りだと思いますが 全体的には 唯物論ではなく、恣意的な差異や対抗軸を設けて結論を導きだそうとする社会学的手法にすぎないという印象・感想です。個人の行動は確かに個人の意思によって決まりますが 全体的な動きは経済的土台から押さえない限り唯物論とは言えません。その経済的土台の変遷がこの文章にはでてきません。というか そういう視点は持っておられないように思われます。
 経済的土台の変遷については 前の手紙に大雑把に書きましたが 日本は 第二次世界大戦で生産力が壊滅的に破壊されたため、戦後復興過程は産業資本主義的で 60年代中頃から生産を軸とした(生産性の高度化を追求する)帝国主義になっていきますが 74、5年恐慌および82、3年不況を経て貸付貨幣資本が軸になった帝国主義になります。この貸付貨幣資本が軸になった帝国主義が可能となったのは 72年のドル兌換停止により通貨と金との等号が切断され その架空性が解き放たれたからです。この3つの区別が 情勢だけでなく運動を考える上でも核心です。60年代は 生産を軸とした帝国主義への飛躍(例えば合理化など)に対し それまでの産業資本主義的あり方(労働者が生産物・価値を作っていることを実感していた)からの批判としてあったと思います。7.7は 帝国主義下の闘いのあり方への主体の飛躍・転換を問うものとしてあったのです。それまでは アジアへの再侵略反対およびベトナム反戦と対象的にのみ展開していました。帝国主義の侵略に反対する運動主体の質(その飛躍・転換)が問われたのです。だから 私たちは自己批判したのです。
 ところで この3つの区別(区分)は レーニンとマルクスを併わせなければ出てきません。レーニンでは 資本主義の発展の産業資本主義(自由主義)段階と帝国主義段階との区別であり マルクスでは 生産資本(資本循環G-W-P-W'-G')と貸付貨幣資本(資本循環の外)との区別です。それぞれ2つの区別を重ねることで 3つの区別(区分)になります。だが 私自身このことに気づいたのは90年代後半です。多くの人は いまもそれに気づかず レーニン『帝国主議論』を発展(?)させて考えようとして、解らなくなっておられる様です。つまり 古くからの左翼のほとんどは 最後は生産を破壊する貸付貨幣資本という視点を持っていないのです。運動に引きつけて言えば 生産を軸とした帝国主義を資本主義の最後の段階、つまり革命の時期と見るのか 貸付貨幣資本(それも架空の)が軸になった時期をその時と見るのかの違いです。マルクスは 『資本論』Ⅲ巻で後者だと明らかにしています。
 新左翼が 60年代の最後で軍事路線を採るようになったのは 革命の時期、つまり資本主義の最後の段階と見ていたからです。歴史の曲がり角で大衆的決起が自然と起こって来るのは当然ですが その運動が武装闘争・軍事路線を採るようになるのは 未来への扉が開かれる革命の時期と考えるからです(非和解的対決の闘争も武装化しますが、個別的です)。もちろん 当時のかけ声は「全人民武装」ですが。実際 対カクマル戦を始めた頃には「3、4年でケリをつけて対権力闘争に戻り、その後10年程で革命はできるだろう」と考えていました。また 75年頃ウラに潜るとき オモテに残る人との挨拶は「次会うときは革命後だね」でした。90年を過ぎるまで オモテに出ることは考えてもいませんでした。
 3区別(区分)で考えれば 67~71年は「早すぎた革命」と言えます。
 1871年のパリ・コミューンも1917年のロシア革命も 産業資本主義段階から帝国主義段階に突入・飛躍するときに起こっています。しかし日本は 日清・日露戦争を通して戦前すでに帝国主義だったのであり 60年代にいままで知らない(経験のない)帝国主義に突入したのではありません。誰もがかつて経験していました。民衆の意識は 産業資本主義的あり方を是とする意見と生産拡大(および高度化)の帝国主義的あり方を是とする意見とに 分裂・混在していたと思います。だから 民衆がこぞってたち上がる情勢とは言えず 67~71年は「早すぎた革命」だったのです。
 ところで「内ゲバ」は 書かれているように71年の海老原事件からですが 街宣での「スパイ摘発」という偶発的事件から全面戦争に拡大させたのは カクマルの方です。東京の話と思っていたら 10月から全国的に襲撃が相次ぎました。関西でも 学生ではなく反戦派の労働者のアジトが真夜中に襲われ 負傷者が相次ぎました。当時第二の11月を準備していたので カクマルの襲撃に構えることも対策も何も採らずに 「怪我してない奴はすべて東京へ行け」が方針でした。12月に入って関西大学で2人が殺されたことで 対カクマルの戦争体制構築へと向かったのです。だから最初は 党の防衛のための戦争でした。先制的内戦戦略として 対カクマル戦に意義と発展があるかのように位置づけたのは 75年本多書記長が殺されて、対カクマル戦が長期になると思われたからです。よって「内ゲバ」の責任はカクマルにあります。すが秀美が「黒田寛一と吉本隆明が、マイノリティー運動に対して冷淡であることは、彼らの思想が『68年』に対して冷淡であることと相即している」と書いているように 黒田・カクマルは 産業資本主義的段階の意識のままだったので 日本帝国主義の復活と認識した全共闘運動の後半では 階級闘争から弾き飛ばされており その巻き返しのために「内ゲバ」路線に突っ込んだのだと思います。彼らは対権力のゲバを一切やっていません。だから 当時の対カクマル戦は 自己防衛のためのもので 絶対的に正しいのです。襲撃から自らの身を守れないでは 誰も信用しません。付け加えれば 70年以降大阪経大がカクマルの拠点になったのは それまでの執行部であった確か情況派を下宿に押し入ってテロって潰したからだと聞いたことがあります。
 すが秀美は 本多書記長虐殺後のカクマルの「一方的停止宣言」を評価していますが 彼らは「内ゲバ」を停止したことはありません。トップクラスが狙えるとなったら襲撃してきました。ジャーナリストならもう少し事実に依拠して欲しいと思います。

 70年代後半以降、長い目で見ると運動は下り坂ですが 原因は2つあります。1つは「内ゲバ」。もちろんすが秀美とは異なる意味でですが。もう1つは 民衆の意識の変化です。党から言えば革命の時期の見誤りです。
 後者から言うと 生産を軸とした帝国主義から貸付貨幣資本を軸とした帝国主義へ進展・転換しているという認識を 当時はまったく持っていませんでした。だから 運動が下り坂に入っているのに、それ故より一層「決戦」と叫んでいました。当然 対権力のゲリラ戦だけで何かができると勘違いしていました。84年自民党本部炎上では拍手喝采でした。もちろん 帝国主義の進展・転換が漸次的なので認識できなかった面もありますが さきに述べたように 『資本論』Ⅲ巻を理解できていなかったことが根本原因です。しかも 運動的には狭山闘争や三里塚闘争でそれなりの闘争ができたので 気づく契機があったはずなのに気がつかないできたのです。私自身は 70年頃から宇野弘蔵を推薦する清水丈夫はおかしいと思い また71年の第二の11月や85年の浅草橋戦闘の戦術には疑問を持ち 更に82、3年の第四インターへのテロル的攻撃には反対しながらも 97、8年のアジア通貨危機で 初めて「何だこれは」となったのです。当時『資本論』Ⅱ巻・Ⅲ巻を学習していて 「ここに書かれているではないか」と気づかされたのです。マルクス主義を掲げながら その基本を理解していなかったのです。
 貸付貨幣資本が軸になった帝国主義で民衆が決起するのは その始まりではなく終わりになった(行き詰まった)ときです。初期段階では 追加貨幣(資本)を投下して景気を維持すること(恐慌の先送り)は 正しいことのように見えるからです。だが過剰生産故に 貨幣を投入しても景気が良くならず、むしろ悪くなり民衆の生活を圧迫するようになると 民衆の反乱が始まるのです。いまその時にきています。貸付貨幣資本のイデオロギーである新自由主義は 80、90年代は「小さな政府」を掲げ、国家による規制・介入を否定していましたが 90年代後半以降は公的資金の投入を要求しています。もともとの主張とまったく逆なのです。まさしく 貸付貨幣資本が軸になった帝国主義はいま終わりを迎えています。
 前者の「内ゲバ」について言えば 対カクマルの防衛戦争論は正しかったが 革命の戦略に位置づけた先制的内戦戦略は いまからみれば正しくなかったと思います。但し、先制的内戦戦略という考え方は いまも正しいと考えています。つまり 先制的に考えられない(敵の出方に後追い的にのみ対応している)なら革命党ではありません。革命の戦略は 敵=権力・支配階級と民衆の動向・存在から定めるべきであって 対カクマル戦が長期になったとしても それは党の防衛論として対権力と区別して押さえるべきだったと思っています。そもそも対カクマル戦と対権力闘争では 当面の武装のレベルと担う主体が違うのですから。もちろん 当時は正しいと思って頑張っていましたが。対カクマル戦は党の防衛のためのものですから 民衆の闘いである革命運動にとっては「影的」存在です(大衆闘争の防衛という面はありますが)。それを 先制的内戦戦略で 党・革命の路線の基軸・第一課題にしたのですから 当然、民衆にとっては「何を言ってるの?!」となったと思います。

 「早すぎた革命」であっても 革命の時と考えるなら 民衆に即した実力闘争や武装を提起すべきだったのです。全共闘運動の実力闘争的発展のベクトルを 党の対カクマル戦に収束させることで 断ち切ってしまったと言えます。軍事路線を採ったことが間違っていたのではなく 革命の論理に民衆との関係を断ち切ったこと、民衆自身の目標を掲げなくなったことが 間違っていたのです。その結果革命の主体である民衆を 党(革命軍)の応援団に位置づけてしまったのです。これが根本的誤りだったと思います。
 だが もし「内ゲバ」がなければ運動は発展していたかというと そんなことはなかったと思います。「内ゲバ」がなくても 総評は連合になっていたでしょう。つまり 貸付貨幣資本を軸とした帝国主義が「発展」し その「発展」によってそれ自身が危機に陥るようにならない限り 巨大な民衆の闘いは望めないと思います。そしていま 国の借金はGDPの2倍にもなり もはや国債の償還(返済)は不可能です。さらに 安倍はデフレ脱却=インフレ政策を掲げていますが 利子率はインフレ率に引きづられます。いま1%の利子率が2~3%になると 国債の利子分さえ払えなくなるのです。まさしく 国家破産の危機・ハイパーインフレが目前に迫っています。





Posted by わいわい通信 at 00:04│Comments(0)
 
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