2009年05月23日
2009年上期景気動向分析…戦後世界経済の金融面から分析
2009年上期景気動向分析…戦後世界経済の金融面から分析
―――――――――――――――――――――――――――――― 花 山 道 夫
以下は 09年1月仲間うちの学習会での花山氏のレポートです。『わいわい通信』2月号と3月号に上下2回にわけて掲載したものです。いまの経済動向についてのレポートなので 私のブログの付録として掲載します。(紙面の制約で 私の一存で少し省略していますが)
昨年のレポートでサブプライム問題を取り上げ その際「『信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題を発端とする金融不安の長期化で』という枕詞が変わるのもそう遠くないであろう」と言ったが まさにそのとおりになったようである。その段階では表に出ていなかったCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)なるものも登場した。
いまや「金融不安の長期化」が格上げされて「金融恐慌」になり 経済関係のビジネス書も「恐慌」の2文字を入れた勇ましい本が花盛りである。ということで今回は当然、「恐慌」問題を取り上げる。といってもこれは資本主義の根本問題で 宇野の原理論がどうたらということは筆者の力量を超えており、あくまで景気動向分析という範囲内で行う。
71年の金ドル兌換停止いわゆるニクソンショックを第一幕とすれば、現段階は第四幕であると考えます。ポイントをしぼり象徴的な局面を取り上げて論述したい。
1.ブレトン・ウッズ体制の確立からニクソンショックまで
アメリカ合衆国ニューハンプシャー州北部に位置する町ブレトン・ウッズで1944年7月に開かれた連合国通貨金融会議によって国際通貨基金IMFと国際復興開発銀行IBRDが設立され、これらの組織と米ドル中心の固定為替相場制を軸とした、いわゆるブレトン・ウッズ体制が生まれた。第二次大戦終結の時点で、世界の金備蓄の80%をアメリカが持っていたからこそできた制度です。
ブレトン・ウッズ協定の内容をまとめると、以下の三点になる。
① 金1トロイオンスを35ドルとし、金の価値に裏付けられたドルに対し各国通貨の交換レ ートを決める金ドル本位制。
② 各国は為替相場に介入しながらその平価の上下1%以内に調整する。ただし、国際収支の 不均衡が大きくなれば、そのレートを変更できる。
③ 国際収支が赤字になり外貨準備が不足した加盟国には、それぞれの出資額の200%まで の短期資金をIMFが融資し、世界銀行と呼ばれている国際復興開発銀行が、資本調達が困 難な加盟国や民間企業などに長期的な融資を行うことでこの体制をささえる。
だがこうして成立した体制も当初はたいして機能していなかった。「民間の貿易や投資通貨、為替媒介通貨(一旦ドルに交換しておけば他通貨に交換しやすいという需要を満たす通貨の意味)としては、大戦後10年間ポンドの方がドルを上回っていたという。例えば貿易だけ見ても 50年代はポンドが使用通貨全体の33%を占めていたのである。さらに言えば、米銀の海外のネットワークもまだ大きくなかった。54年の米銀の海外支店・事務所数は112店にすぎず、英銀のそれは500店と約4倍にも上がっていた。」(田村賢司『マネー動乱』)
というのも、日本や欧州などアメリカ以外の国々は、戦争で工業生産設備も破壊され金備蓄もほとんど使い果たしていたのでアメリカに売るものがなく、ドルを得られないので輸入もできなかった。世界の富の大半がアメリカに集まり、他国よりも工業生産が発展していたという状況では、ドルが世界に流通するはずがなかった。
こうした状況を大きく転換したのはアメリカ自身であった。東側(スタ圏)に対抗するために西側諸国に気前良く経済援助したマーシャル・プランや日本に対するガリオア・エロア資金(占領地救済政府基金GARIOA 占領地経済復興基金EROA)、また朝鮮戦争の特需によってもドル資金が世界中にばら撒かれたのである。
世界銀行が戦後復興に果たしたエピソードをひとつ紹介。日本に53年から導入されはじめた世界銀行からの低金利の融資は合計8億6000万ドル(当時の日本円では3200億円、現在の額に換算すれば約6兆円)に達し、インドに次ぎ2番目の大きな金額であった。つまり日本は世界で最もお世話になった被援助国の一つであった。当時の日本の経済力はアメリカのわずか数%に過ぎず、まさに開発途上国そのものであった。東海道新幹線や東名高速道路、そして黒四ダム、愛知用水といった日本の最も必要とした経済発展のインフラ(経済基盤)整備に借金をする必要があった。ちなみに、全ての借金の返済を終了したのは90年7月です。
こうして力を付けてきた日帝、独帝等が輸出を伸ばしてくるとドルが還流しだし、ドルが名実ともに基軸通貨として確立したのである。だが同時に、それは海外にドルが滞留しだしたことを意味する。すでに60年10月27日にはロンドン金市場で金価格が40ドルに急騰している。しかし、概して60年代末まではアメリカの金融機関の黄金時代だったといわれている。「すでに大恐慌直後から続いてきた預金の上限金利規制や、預金者保護にはなるが金融側にはコスト増になる預金保険制度など厳しい規制もあり、海外市場に雪崩を打って出て行った。54年に112店でしかなかった米系多国籍銀行の海外支店は、60年でも124店にすぎなかったが、65年には211店、70年には536店に急増。60年代後半には 米銀などの国際的なネットワークで英国を抜き去ったのである。そして、この急拡大が既に海外に滞留していたドルを使い始めた。60年代、ユーロ・ダラー市場の登場である。」(田村、前掲書)
つまりこのことはどういうことを示唆しているかというと、ニクソン・ショックによってドルの兌換が停止されたからと言って また旧来の金本位制に戻ることは出来ないということです。
71年8月16日(月)午前10時(ワシントン時間15日午後9時)ニクソン大統領は、テレビ・ラジオで一律10%の輸入課徴金制度(実質のドル切り下げ)とドルの金交換性停止を柱とする声明を発表した。戦後国際市場最大の「衝撃」といわれる「ニクソン・ショック」である。当時、日本の盆休みを狙ってやったという解説記事が載っていたのを記憶している。実はアメリカは60年代後半から貿易収支の黒字幅が縮小に転じ、ドルへの信認が動揺してきた。そして、アメリカの金準備高が減少傾向を強めてきたことから対外黒字幅を拡大する日本に対して円の切り上げを強く要求してきた。日本は黒字の増大は一時的だとして抵抗を続けてきたという経緯があった。日本のGNPは68年に西ドイツを抜いてアメリカ、ソ連に次ぐ世界第3位になっていた。その西ドイツさえ61、69年と2回も切り上げたというのに。そういう体質だから、他のヨーロッパ市場が8月17日に一斉に閉鎖されたにもかかわらず、大蔵省・日銀は東京市場を27日まで開け続け、1ドル360円を死守すべく約40億ドル(約1兆4000億円)のドル買いをおこなった。
12月17日、スミソニアン会議で円・ドル相場は、1ドル=360円から1ドル=308円に修正された。これはドル本位制を維持しようとするもので、スミソニアン体制と言われたが、73年以降主要国は変動為替相場制へ移行し、この新体制も崩壊した。
日銀はこの円切り上げによる景気後退を恐れて直ちに公定歩合を0.5%引き下げた。さらに翌72年6月にも0.5%引き下げ4.25%とした。こうした日銀の金融緩和政策によって市中銀行は貸し出しを積極化し、過剰流動性が発生し始めた。そして、7月に「日本列島改造論」をひっさげた田中角栄内閣が成立、全国の地価を引き上げた。全国市街地の土地価格指数で72~74年の間に5割以上の暴騰。「72年には社会主義諸国の穀物が不作で、ソ連がアメリカ市場で大量の穀物買い付けを行ったのを契機に、国際一次産品の価格上昇が急に表面化した。…72年半ばまでは、為替レートの切り上げの効果があらわれて、日本の輸入物価は低下の傾向をたどった。しかしその後は、輸入品の価格上昇が表面化し、卸売物価も上昇し始めた。73年2月にはアメリカが、穀物の国内価格の暴騰から、大豆の対日輸出を禁止したために、豆腐も味噌・醤油も不足するといわれ、特に豆腐の価格は暴騰した。同じ2月には…変動相場制への再度の移行が行われ、円相場は10%以上切り上げられたが、国内物価の上昇を抑制することはできなかった。」(中村隆英『日本経済 その成長と構造』)
こうした状況を日銀も認識していたが、拡張的な首相の手前金融引き締め策を発動しかねるようになっていた。ようやく引き締めに転じたのは73年3月であった。「財政・金融当局がインフレーション抑制のための手段を取り始めたのは73年に入ってからで、本格化したのは4月以降であった。田中内閣が初めて編成した73年度予算は、前年度比24.6%増の大型予算であって、公共投資は32.2%増となっていた。この予算が国会を通過した73年4月初めまで、本格的な引き締め政策の実施をためらったことが、インフレーション抑制の時期を失したのである。」(中村、前掲書)
こうした国際的な大インフレーションの中、最後のとどめを刺したのが73年10月の第四次中東戦争に伴う「石油危機」であった。73年はじめには1バレルあたり2ドル台だった原油価格は、1年後の74年には11ドル台まで上昇した。文字通りインフレーションという火の中に油をそそぐことになった。もちろん石油価格の高騰の背景にはドルの貨幣価値の低下があったことを忘れてはならない。
その後の厳しい引き締めによりインフレーションは急速に鎮静したが、日本の高度成長もこの時をもって完全に終わりを告げたのである。
利子率について三菱UFJ証券の水野和夫氏は次のように述べている。「74年ごろにピークを迎えたというのは、一つの経済指標からも見ることができます。世界の長期金利は74年をピークとして一斉に下がっているのです。長期金利は定義的には企業の利潤率と一緒に動きます(長期金利が利潤率の観測可能な代わりの数値)。74年の時はインフレだったために長期金利も上昇していましたが、そのインフレを鎮静化しようとする政策によって、長期金利が下がっていきました。新自由主義の考え方に立つマネタリズムが台頭し、マネーサプライ(通貨供給量)をコントロールすることによって、インフレの抑制に成功し、長期金利もさらに下がるようになってきました。そして、先進国では74年から企業の利潤率が上がらない現象が続くようになりました。そのあと30年以上、企業は何をやっても利潤率が上がらない状況なのです。もっとも、これは実物投資の利潤率であって、債券や株式などの価格の値上がり益(キャピタル・ゲイン)は反映されていません。ですから、利潤を極大化しようと思えば、実物投資をあきらめてキャピタル・ゲインを得る、つまり金融市場を使って資産を増やす方が効率的ということになります。先進国で実物投資、すなわち工場を建てたりオフィスビルを建築することで得られるリターンが低下しているのは、経済が成熟化しているからです。」(『金融大崩壊 「アメリカ金融帝国」の崩壊』)
また 水野氏と同じ会社、三菱UFJ証券の景気循環研究所のレポートでは、アメリカの長期国債利回りは45年を谷、81年を山として現在下がり続けている(日本経済新聞1月9日 ゼミナール景気循環と恐慌⑤)。さらに板木雅彦も 「アメリカを含む先進資本主義諸国の利潤率が、第二次大戦直後の混乱期を脱して以降、50、60年代から80年代初めにかけて長期的な低落傾向のもとにあったという点は、ほぼ実証的に明らかになったと考えることができる。しかし同時に、日本を除く先進資本主義国7ヶ国で80年代に多かれ少なかれ利潤率の回復が感化されているという事実も、看過してはならない。」(『国際過剰資本の誕生』)と述べています。
念のため付け加えると日本の金融機関は倒産していないが欧米の2行が倒産している。74年にドイツのヘルシュタット銀行とアメリカのフランクリン・ナショナル銀行が、為替取引に失敗して大きな損失を出し破産した。
この第一幕を整理すると ①変動相場制に移行するということは 平価を維持するために自国経済の調整を犠牲にする必要がなくなった、マネーが動きやすくなった。②米経済の没落が明確になった。③ケインズ的な財政政策の効果がスタグフレーションの発生で疑問視されだした。
2.プラザ合意
この時代はレーガンの時代の米帝に焦点を当てて分析しておこう。第三幕のキーワドは双子の赤字である。
79年8月にFRB議長に就任したポール・ボルカーは78年の一年間で平均8%だったFFレートを81年1月まで約19%までに引き上げた。その後82年6月まで2けたを維持し一旦1桁に戻したが84年には再び2ケタ台に戻して徹底的に物価上昇を抑え込もうとした。
この高金利政策に加えて81年に就任したドナルド・レーガンによる大軍拡と大企業と富裕層への優遇税制によって、外国からの米国への投資が増大し、ドル高時代を迎えた。逆に製造業はドル高に耐え切れずアジアなどに移転して空洞化が進んだ。そして、それが経常赤字を生み、財政赤字とともに双子の赤字といわれた。85年9月22日、アメリカ合衆国・ニューヨークの「プラザホテル」にG5が集まり アメリカ合衆国の対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意をした。これがプラザ合意である。
名目GDP総額に占める産業別GDPの比率は、製造業が70年の22.7%から20%へ、金融・不動産業は同じく14.6%から15.9%になり、85年というのはこれが並んだ年でもあった。ちなみに2006年比率では製造業11.7%、金融・不動産業20.9%である。
しかし、この段階はまだ製造業を維持していこうという意思はあった。ただし規制緩和と民営化による労働者に対する徹底した搾取と収奪、外国企業に対する通商法301条等の貿易障壁によってではあるが。
3.ルービンのドル高政策
93年1月にビル・クリントンの政権が成立します。当初はドル安政策を追求します。しかし、ベーカー長官からかわった元ゴールドマン・サックスの会長ルービンのもとで、95年4月19日には1ドル79円75銭の戦後最高値をつけます。それ以来現段階までこの水準は超えておりません。しかしその後ルービンはドル高金利政策に舵を切ります。米帝は金融で食っていくのだということをこの段階で意識したのだ。別の言葉でいえば架空資本に基軸を切り替えたということです。
株式投資に例をとると、インカム・ゲインからキャピタル・ゲイン切り替えたということです。キャピタル・ゲインとは値上がり益狙いです。だから我なき後に洪水来れという感じです。インカム・ゲインというのは、その会社の将来の成長にかけて配当に期待するような投資方法です。ハイリスク・ハイリターンに切り替えたのです。ところがこれがうまくいった。「94年以前(75~94年)はアメリカに入ってくる資金はGDPの2.4%でした。95年以降(95~07年)はそれがGDPの8.3%となり、3.5倍に膨れ上がりました。90年代後半からは投資銀行の全盛時代で、投資銀行は3.5倍に増えた外国からの投資に30~40倍のレバレッジを掛けて運用するわけですから、合計で100~140倍の金融資本をアメリカは使えるようになっていきます。しかも、それほど莫大な資本がアメリカに入ってくれば、株も上がる、住宅価格も上がる。それがサブプライムローン問題につながっていくのです。アメリカは94年以前と比べて100倍もの資本を手にすることができました。だから欧米を中心とした世界の投資家は、わずか10数年で100兆ドルもの金融資産を増やすことができたのです。日本は戦後60年かけて個人金融資産を1500兆円増やしました。金額にして6倍、期間にして5分の1で、日本の30倍のスピードです。アメリカは事実上無から有の資本を手にしたことになります。」(水野、前掲書)
その後規制緩和を拡大し、最後の仕上げはグラス・スティーガル法の廃止です。29年恐慌の反省にたってつくられた33年銀行法のことで、提案者である議員の名前をとってそう呼ばれる。同法では、預金銀行業務と証券業務の兼営を禁止していたほか、連邦準備制度加盟銀行が証券会社を系列に置くこと、兼務する役員を置くことなども禁止していました。これらの規制は99年の金融制度改革法(グラム・ビーチ・ブライリー法)によって改定されています。つまり、金融持株会社は、証券業務、保険業務、ミューチュアル・ファンド業務、マーチャント・バンキング業務など、法律に規定される本来の金融業務とともに、それらの業務に付随する業務、補完的業務なども営むことができるようになりました。また、一定の条件を満たす国法銀行は、金融持株会社を設立することなく、金融小会社を通じてこれらの業務を営むことができます(20条の廃止)。あわせて証券の発行、引受けを主たる業務として行う証券子会社などの役員・職員の兼務も認められることとなりました(32条の廃止)。しかしその後、金融危機が繰り返し起って来たのは周知のとおりです。97年アジア通貨危機、98年LTCM、2000年ITバブル。
4.マネーは寝かせてはおけない
「音楽が鳴っているうちは、踊りつづけないといけない」。経営悪化の責任を取ってシティグループの最高経営責任者CEOを辞したチャールズ・プリンスはこう述べている。業界では 2006年の段階でサブプライムローンの危うさは指摘されていたということです。バブルと分かっていてもバブルがはじけるまでは逃げ出すわけにはいかない投資家の心理を表しています。個人投資家は難しい局面では一時休むことができるが プロはそうはいかない。まさにマネーは寝かせてはおけないのです。
金融業界、いやアメリカ全体の報酬体系が雇われギャンブラーになっていた。あなたがギャンブラー会社の社員だとする。毎日パチンコ屋か競馬か丁半博打のどれかに行く資金は会社持ち、毎日の成績は問わないが 1か月でマイナスになるもしくは成績がビリになると首になる。もちろん社員なので負けた分について事後的に請求されない。ただし、儲るとあがりの2割もらえる。とすると、あなたはどれを選ぶでしょうか。
こうしてものすごい勢いで増殖してきた金融資本が実体経済をも拡大してきた。金融機関関係者の消費の拡大。土地価格の上昇によるホーム・エクィティローンによる消費の拡大。消費の拡大がさらに消費の拡大を呼ぶという循環をなしていた。日本の高度成長期には投資が投資を呼ぶという循環が成立していた。
アメリカの実質GDPに占める個人消費の比率、97年66.7%がボトムでピークは72%。この差約5%は、アメリカ国内で設備投資をしてきたのではなく他国が設備投資をしてきたことを意味する。他国(輸出国)の輸出量が減り、設備が過剰になるということです。
では、この間輸出で景気を浮揚させてきた日本が内需拡大に舵を切り替えられるのかについて、問題点を整理してみよう。
まず政策当局が内需拡大を追求してきたのだろうかということを検討する。日銀の超低金利政策はどうか。金利の引き下げ圧力が続いてきたが、圧力をかけた側は金利を下げることでなにがしらの経済の浮揚効果があるかの言説を振りまいてきたが、0.1%や0.2%の違いに有意な差が認められるわけではない。例えば、事業資金を1000万円借入るとすると利子は1万円で 普通の経営者ははっきりいってそんなことは考慮しない。ではなぜ長期にわたって超低金利政策にしておいたのか。第一に円キャリートレードでアメリカが投資資金で使えるからだ。第二に国債の利払いには金利が安い方がいいからだ。第三に金利が安いと円安になるから輸出企業にとって有利になる。しかしドル、ポンドもここまで低金利になると 第一、第三の効果はなくなる。だから、もともと超低金利政策の目的が内需拡大にあるのではなく、円安経路を通じて大企業を有利にすることが主眼であったのである。それももう期待できない。
田岡俊次氏(朝日新聞記者、軍事評論家)の説を検討する。「日本は輸出依存度が高いといわれるが、国内総生産GDPに対する輸出額は、06年で14.9%。中国36.7%、韓国36.7%、ドイツ38.9%、フランス21.7%などと比べ格段に低く、主要国では米国の7.9%に次ぐ低さだ。日本の対米輸出は輸出総額の20%、GDPの約3%。家計支出と住宅建設がGDPの約60%を占める日本はすでに内需中心の経済で、輸入価格の下落を生かして内需を拡大し、雇用を確保する手はありそうに思われる。」(AERA08.12.29)
他国と比べて意味はないとは言いませんが、各国もそれなりの事情があってそのような数値になっているので、一概に他国に比べて少ないので内需中心の経済だといわれてもいかがかと思われます。問題はこの間の輸出依存度の変化なのです。01年に10.56%だったのが07年には17.61%まで上がってきております。
田岡氏の論理は 円高で輸出が減っても輸入の金額が減るから何とかなるのではないかということですが、ことはそう簡単にいかないと思います。金額的にみればそうかもしれませんが、輸出産業に携わった労働者の働き口が確保されるわけではないので、当面相当のデフレ圧力が作用すると考えられます。対アメリカのGDP比を取り上げていますが、中国経由の部品の輸出等もかなりありますし、今回は世界同時不況なのでアメリカの分が多少減ってもという議論は成り立たないと思います。小泉構造改革によって輸出する大企業には有利な経済体制に組み換わっていますので、この不景気の中 内需拡大といってもそう簡単にいくものではありません。
戦後世界経済が金融恐慌への道程ということで整理しなおすと次のようになる。
第一幕:変動相場制に移行することで金融自由化の流れに入った(金融恐慌が発生する条件はできた)
第二幕:アメリカはマネタリズムでインフレの鎮静化に成功するが、利潤率の回復には成功しなかった。しかし製造業の衰退に反して金融部門は拡大していった。
第三幕:金融資本市場でのキャピタル・ゲイン狙いでリターンを高めるようになった。
第四幕:過剰資本が自分自身の重みで自滅した。収奪する対象を食いつぶしてしまった。
5.現状認識-危機なのか、恐慌なのか
ガルブレイスが『大暴落1929』の中で次のように述べている。「29年の秋が深まるまでは景気はさほど落ち込んでいなかった」。29年恐慌の時もフロリダの土地バブルとその崩壊、株式バブルとその崩壊、そしてその後の産業恐慌という流れです。今回も2006年からの地価の下落から始まっています。英語では景気後退をrecession 長期にわたる深刻な不況をdepressionといいます。前者は循環的なもの、後者は構造的なものといってもよいかもしれません。恐慌の訳語は 通常panicが当てられますが、経済用語としてはdepressionの方が適切かもしれません。29年恐慌はThe Great Depression(大恐慌)という。金融危機とは金融システム全体におよぶ機能不全。信用不安・資産価値の下落・資本流出などによる金融システムの機能不全が、相乗的に作用して悪循環が止まらなくなること。この悪循環のことを信用収縮という。貸したお金が返ってこないのではとみんなが心配するので金利が急上昇する。この間LIBOR(ロンドン銀行間資金調達金利 6ヶ月物は短期金利の指標として使われる)とのクレジット・スプレッドがかなり上乗せされた金融機関が発生した。そしてそれが実体経済に影響をおよぼしだした段階で金融恐慌となる。その実体経済が実体経済に影響して、さらに消費・投資の減退、失業の増大、貿易の縮小という段階にまで至ったのを経済恐慌(産業恐慌)と定義しておこう。
(1) 金融危機→(2) 金融恐慌→(3) 経済恐慌という流れです。
第一段階で止める名人が前FRB議長マエストロ・グリーンスパンです。得意技はモグラたたきです。第二段階でも止められると豪語するのが現FRB議長ベン・バーナンキです。でも彼は学者ですから次の著書にはたぶんこう書くでしょう「2009年恐慌では金融資産が実物資産に見合う水準に減少するまで終わらなかった」。
アメリカでは個人の金融資産の構成比における債券・投資信託・株式の割合が5割を超えているので、今回の金融恐慌の影響が日本に比べて資産効果という点では大きい。また年金もいわゆる401kという確定拠出年金(資産の運用によって支払額が変動する)で運用している部分がかなりあるので、年金生活者にもすでに影響が出始めている。消費を控えようという心理的な部分と収入そのものが減ったということで、すでに消費が大きく落ち込んでいる。
アメリカ労働省によると、去年12月の失業率は前月比0.4ポイント増の7.2%で、16年ぶりの高い数字となった。また職を失った人は12か月連続で増え続けていて、去年1年間で計258万9000人に上り、1945年以来最悪となった。こういう観点からして現状は金融恐慌という段階であると判断される。
6.終わりの始まりは始まるのか
「一般的に言って、大暴落の原因を説明する方がその後の大恐慌を説明するよりはるかにやさしい。恐慌の原因を究明しようとすると、株の暴落が果たした役割を評価するのが非常に難しい問題となる。」(前掲書174p) つまるところ、第二段階から第三段階にかけてはいろんな要素がからんできて 一直線の展開ではないということなのです。
結論から言うと「直ちに全面的な経済恐慌に転落するとはならないとしても、数年間ないしはそれ以上の景気後退の継続は不可避であろう」。島崎流に危機を連発して明日にも大恐慌が起こるかのように言うより 「科学的分析として今言えるのはここまでである」の方がよっぽど凄味があると思いませんか。
繰り返しになるが、米帝の唯一の強みであった金融というカードが使えなくなったということが、今回の事態の最大の問題である。だからそういう意味でも金融危機ではなく金融恐慌なのです。まあ、違った金儲けの方法を考えつけば別ですけど。そこら辺を注目して分析していけば明確になっていくと思います。今のところ日米とも株式市場は昨年の底値より戻していますが、これはオバマ期待で様子見というところでしょう。どういう政策をやるか見ものです。健康のための標語にこういうのがある「一に運動、二に食事、三にタバコを吸わないで、最後に薬」。長年不健康な暮らし(収入以上の支出)をしてきたアメリカにとってサブプライム問題はタバコの煙みたいなものでしょう。もう薬に頼るしかありません。しかも劇薬です。薬はよく効くほど副作用が強い。クスリはリスク。今年は経済学の大実験が見られる。最後に一言、竹中平蔵氏には新大統領にアドバイスしてもらいたい 「改革をとめるな!」と。
―――――――――――――――――――――――――――――― 花 山 道 夫
以下は 09年1月仲間うちの学習会での花山氏のレポートです。『わいわい通信』2月号と3月号に上下2回にわけて掲載したものです。いまの経済動向についてのレポートなので 私のブログの付録として掲載します。(紙面の制約で 私の一存で少し省略していますが)
昨年のレポートでサブプライム問題を取り上げ その際「『信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題を発端とする金融不安の長期化で』という枕詞が変わるのもそう遠くないであろう」と言ったが まさにそのとおりになったようである。その段階では表に出ていなかったCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)なるものも登場した。
いまや「金融不安の長期化」が格上げされて「金融恐慌」になり 経済関係のビジネス書も「恐慌」の2文字を入れた勇ましい本が花盛りである。ということで今回は当然、「恐慌」問題を取り上げる。といってもこれは資本主義の根本問題で 宇野の原理論がどうたらということは筆者の力量を超えており、あくまで景気動向分析という範囲内で行う。
71年の金ドル兌換停止いわゆるニクソンショックを第一幕とすれば、現段階は第四幕であると考えます。ポイントをしぼり象徴的な局面を取り上げて論述したい。
1.ブレトン・ウッズ体制の確立からニクソンショックまで
アメリカ合衆国ニューハンプシャー州北部に位置する町ブレトン・ウッズで1944年7月に開かれた連合国通貨金融会議によって国際通貨基金IMFと国際復興開発銀行IBRDが設立され、これらの組織と米ドル中心の固定為替相場制を軸とした、いわゆるブレトン・ウッズ体制が生まれた。第二次大戦終結の時点で、世界の金備蓄の80%をアメリカが持っていたからこそできた制度です。
ブレトン・ウッズ協定の内容をまとめると、以下の三点になる。
① 金1トロイオンスを35ドルとし、金の価値に裏付けられたドルに対し各国通貨の交換レ ートを決める金ドル本位制。
② 各国は為替相場に介入しながらその平価の上下1%以内に調整する。ただし、国際収支の 不均衡が大きくなれば、そのレートを変更できる。
③ 国際収支が赤字になり外貨準備が不足した加盟国には、それぞれの出資額の200%まで の短期資金をIMFが融資し、世界銀行と呼ばれている国際復興開発銀行が、資本調達が困 難な加盟国や民間企業などに長期的な融資を行うことでこの体制をささえる。
だがこうして成立した体制も当初はたいして機能していなかった。「民間の貿易や投資通貨、為替媒介通貨(一旦ドルに交換しておけば他通貨に交換しやすいという需要を満たす通貨の意味)としては、大戦後10年間ポンドの方がドルを上回っていたという。例えば貿易だけ見ても 50年代はポンドが使用通貨全体の33%を占めていたのである。さらに言えば、米銀の海外のネットワークもまだ大きくなかった。54年の米銀の海外支店・事務所数は112店にすぎず、英銀のそれは500店と約4倍にも上がっていた。」(田村賢司『マネー動乱』)
というのも、日本や欧州などアメリカ以外の国々は、戦争で工業生産設備も破壊され金備蓄もほとんど使い果たしていたのでアメリカに売るものがなく、ドルを得られないので輸入もできなかった。世界の富の大半がアメリカに集まり、他国よりも工業生産が発展していたという状況では、ドルが世界に流通するはずがなかった。
こうした状況を大きく転換したのはアメリカ自身であった。東側(スタ圏)に対抗するために西側諸国に気前良く経済援助したマーシャル・プランや日本に対するガリオア・エロア資金(占領地救済政府基金GARIOA 占領地経済復興基金EROA)、また朝鮮戦争の特需によってもドル資金が世界中にばら撒かれたのである。
世界銀行が戦後復興に果たしたエピソードをひとつ紹介。日本に53年から導入されはじめた世界銀行からの低金利の融資は合計8億6000万ドル(当時の日本円では3200億円、現在の額に換算すれば約6兆円)に達し、インドに次ぎ2番目の大きな金額であった。つまり日本は世界で最もお世話になった被援助国の一つであった。当時の日本の経済力はアメリカのわずか数%に過ぎず、まさに開発途上国そのものであった。東海道新幹線や東名高速道路、そして黒四ダム、愛知用水といった日本の最も必要とした経済発展のインフラ(経済基盤)整備に借金をする必要があった。ちなみに、全ての借金の返済を終了したのは90年7月です。
こうして力を付けてきた日帝、独帝等が輸出を伸ばしてくるとドルが還流しだし、ドルが名実ともに基軸通貨として確立したのである。だが同時に、それは海外にドルが滞留しだしたことを意味する。すでに60年10月27日にはロンドン金市場で金価格が40ドルに急騰している。しかし、概して60年代末まではアメリカの金融機関の黄金時代だったといわれている。「すでに大恐慌直後から続いてきた預金の上限金利規制や、預金者保護にはなるが金融側にはコスト増になる預金保険制度など厳しい規制もあり、海外市場に雪崩を打って出て行った。54年に112店でしかなかった米系多国籍銀行の海外支店は、60年でも124店にすぎなかったが、65年には211店、70年には536店に急増。60年代後半には 米銀などの国際的なネットワークで英国を抜き去ったのである。そして、この急拡大が既に海外に滞留していたドルを使い始めた。60年代、ユーロ・ダラー市場の登場である。」(田村、前掲書)
つまりこのことはどういうことを示唆しているかというと、ニクソン・ショックによってドルの兌換が停止されたからと言って また旧来の金本位制に戻ることは出来ないということです。
71年8月16日(月)午前10時(ワシントン時間15日午後9時)ニクソン大統領は、テレビ・ラジオで一律10%の輸入課徴金制度(実質のドル切り下げ)とドルの金交換性停止を柱とする声明を発表した。戦後国際市場最大の「衝撃」といわれる「ニクソン・ショック」である。当時、日本の盆休みを狙ってやったという解説記事が載っていたのを記憶している。実はアメリカは60年代後半から貿易収支の黒字幅が縮小に転じ、ドルへの信認が動揺してきた。そして、アメリカの金準備高が減少傾向を強めてきたことから対外黒字幅を拡大する日本に対して円の切り上げを強く要求してきた。日本は黒字の増大は一時的だとして抵抗を続けてきたという経緯があった。日本のGNPは68年に西ドイツを抜いてアメリカ、ソ連に次ぐ世界第3位になっていた。その西ドイツさえ61、69年と2回も切り上げたというのに。そういう体質だから、他のヨーロッパ市場が8月17日に一斉に閉鎖されたにもかかわらず、大蔵省・日銀は東京市場を27日まで開け続け、1ドル360円を死守すべく約40億ドル(約1兆4000億円)のドル買いをおこなった。
12月17日、スミソニアン会議で円・ドル相場は、1ドル=360円から1ドル=308円に修正された。これはドル本位制を維持しようとするもので、スミソニアン体制と言われたが、73年以降主要国は変動為替相場制へ移行し、この新体制も崩壊した。
日銀はこの円切り上げによる景気後退を恐れて直ちに公定歩合を0.5%引き下げた。さらに翌72年6月にも0.5%引き下げ4.25%とした。こうした日銀の金融緩和政策によって市中銀行は貸し出しを積極化し、過剰流動性が発生し始めた。そして、7月に「日本列島改造論」をひっさげた田中角栄内閣が成立、全国の地価を引き上げた。全国市街地の土地価格指数で72~74年の間に5割以上の暴騰。「72年には社会主義諸国の穀物が不作で、ソ連がアメリカ市場で大量の穀物買い付けを行ったのを契機に、国際一次産品の価格上昇が急に表面化した。…72年半ばまでは、為替レートの切り上げの効果があらわれて、日本の輸入物価は低下の傾向をたどった。しかしその後は、輸入品の価格上昇が表面化し、卸売物価も上昇し始めた。73年2月にはアメリカが、穀物の国内価格の暴騰から、大豆の対日輸出を禁止したために、豆腐も味噌・醤油も不足するといわれ、特に豆腐の価格は暴騰した。同じ2月には…変動相場制への再度の移行が行われ、円相場は10%以上切り上げられたが、国内物価の上昇を抑制することはできなかった。」(中村隆英『日本経済 その成長と構造』)
こうした状況を日銀も認識していたが、拡張的な首相の手前金融引き締め策を発動しかねるようになっていた。ようやく引き締めに転じたのは73年3月であった。「財政・金融当局がインフレーション抑制のための手段を取り始めたのは73年に入ってからで、本格化したのは4月以降であった。田中内閣が初めて編成した73年度予算は、前年度比24.6%増の大型予算であって、公共投資は32.2%増となっていた。この予算が国会を通過した73年4月初めまで、本格的な引き締め政策の実施をためらったことが、インフレーション抑制の時期を失したのである。」(中村、前掲書)
こうした国際的な大インフレーションの中、最後のとどめを刺したのが73年10月の第四次中東戦争に伴う「石油危機」であった。73年はじめには1バレルあたり2ドル台だった原油価格は、1年後の74年には11ドル台まで上昇した。文字通りインフレーションという火の中に油をそそぐことになった。もちろん石油価格の高騰の背景にはドルの貨幣価値の低下があったことを忘れてはならない。
その後の厳しい引き締めによりインフレーションは急速に鎮静したが、日本の高度成長もこの時をもって完全に終わりを告げたのである。
利子率について三菱UFJ証券の水野和夫氏は次のように述べている。「74年ごろにピークを迎えたというのは、一つの経済指標からも見ることができます。世界の長期金利は74年をピークとして一斉に下がっているのです。長期金利は定義的には企業の利潤率と一緒に動きます(長期金利が利潤率の観測可能な代わりの数値)。74年の時はインフレだったために長期金利も上昇していましたが、そのインフレを鎮静化しようとする政策によって、長期金利が下がっていきました。新自由主義の考え方に立つマネタリズムが台頭し、マネーサプライ(通貨供給量)をコントロールすることによって、インフレの抑制に成功し、長期金利もさらに下がるようになってきました。そして、先進国では74年から企業の利潤率が上がらない現象が続くようになりました。そのあと30年以上、企業は何をやっても利潤率が上がらない状況なのです。もっとも、これは実物投資の利潤率であって、債券や株式などの価格の値上がり益(キャピタル・ゲイン)は反映されていません。ですから、利潤を極大化しようと思えば、実物投資をあきらめてキャピタル・ゲインを得る、つまり金融市場を使って資産を増やす方が効率的ということになります。先進国で実物投資、すなわち工場を建てたりオフィスビルを建築することで得られるリターンが低下しているのは、経済が成熟化しているからです。」(『金融大崩壊 「アメリカ金融帝国」の崩壊』)
また 水野氏と同じ会社、三菱UFJ証券の景気循環研究所のレポートでは、アメリカの長期国債利回りは45年を谷、81年を山として現在下がり続けている(日本経済新聞1月9日 ゼミナール景気循環と恐慌⑤)。さらに板木雅彦も 「アメリカを含む先進資本主義諸国の利潤率が、第二次大戦直後の混乱期を脱して以降、50、60年代から80年代初めにかけて長期的な低落傾向のもとにあったという点は、ほぼ実証的に明らかになったと考えることができる。しかし同時に、日本を除く先進資本主義国7ヶ国で80年代に多かれ少なかれ利潤率の回復が感化されているという事実も、看過してはならない。」(『国際過剰資本の誕生』)と述べています。
念のため付け加えると日本の金融機関は倒産していないが欧米の2行が倒産している。74年にドイツのヘルシュタット銀行とアメリカのフランクリン・ナショナル銀行が、為替取引に失敗して大きな損失を出し破産した。
この第一幕を整理すると ①変動相場制に移行するということは 平価を維持するために自国経済の調整を犠牲にする必要がなくなった、マネーが動きやすくなった。②米経済の没落が明確になった。③ケインズ的な財政政策の効果がスタグフレーションの発生で疑問視されだした。
2.プラザ合意
この時代はレーガンの時代の米帝に焦点を当てて分析しておこう。第三幕のキーワドは双子の赤字である。
79年8月にFRB議長に就任したポール・ボルカーは78年の一年間で平均8%だったFFレートを81年1月まで約19%までに引き上げた。その後82年6月まで2けたを維持し一旦1桁に戻したが84年には再び2ケタ台に戻して徹底的に物価上昇を抑え込もうとした。
この高金利政策に加えて81年に就任したドナルド・レーガンによる大軍拡と大企業と富裕層への優遇税制によって、外国からの米国への投資が増大し、ドル高時代を迎えた。逆に製造業はドル高に耐え切れずアジアなどに移転して空洞化が進んだ。そして、それが経常赤字を生み、財政赤字とともに双子の赤字といわれた。85年9月22日、アメリカ合衆国・ニューヨークの「プラザホテル」にG5が集まり アメリカ合衆国の対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意をした。これがプラザ合意である。
名目GDP総額に占める産業別GDPの比率は、製造業が70年の22.7%から20%へ、金融・不動産業は同じく14.6%から15.9%になり、85年というのはこれが並んだ年でもあった。ちなみに2006年比率では製造業11.7%、金融・不動産業20.9%である。
しかし、この段階はまだ製造業を維持していこうという意思はあった。ただし規制緩和と民営化による労働者に対する徹底した搾取と収奪、外国企業に対する通商法301条等の貿易障壁によってではあるが。
3.ルービンのドル高政策
93年1月にビル・クリントンの政権が成立します。当初はドル安政策を追求します。しかし、ベーカー長官からかわった元ゴールドマン・サックスの会長ルービンのもとで、95年4月19日には1ドル79円75銭の戦後最高値をつけます。それ以来現段階までこの水準は超えておりません。しかしその後ルービンはドル高金利政策に舵を切ります。米帝は金融で食っていくのだということをこの段階で意識したのだ。別の言葉でいえば架空資本に基軸を切り替えたということです。
株式投資に例をとると、インカム・ゲインからキャピタル・ゲイン切り替えたということです。キャピタル・ゲインとは値上がり益狙いです。だから我なき後に洪水来れという感じです。インカム・ゲインというのは、その会社の将来の成長にかけて配当に期待するような投資方法です。ハイリスク・ハイリターンに切り替えたのです。ところがこれがうまくいった。「94年以前(75~94年)はアメリカに入ってくる資金はGDPの2.4%でした。95年以降(95~07年)はそれがGDPの8.3%となり、3.5倍に膨れ上がりました。90年代後半からは投資銀行の全盛時代で、投資銀行は3.5倍に増えた外国からの投資に30~40倍のレバレッジを掛けて運用するわけですから、合計で100~140倍の金融資本をアメリカは使えるようになっていきます。しかも、それほど莫大な資本がアメリカに入ってくれば、株も上がる、住宅価格も上がる。それがサブプライムローン問題につながっていくのです。アメリカは94年以前と比べて100倍もの資本を手にすることができました。だから欧米を中心とした世界の投資家は、わずか10数年で100兆ドルもの金融資産を増やすことができたのです。日本は戦後60年かけて個人金融資産を1500兆円増やしました。金額にして6倍、期間にして5分の1で、日本の30倍のスピードです。アメリカは事実上無から有の資本を手にしたことになります。」(水野、前掲書)
その後規制緩和を拡大し、最後の仕上げはグラス・スティーガル法の廃止です。29年恐慌の反省にたってつくられた33年銀行法のことで、提案者である議員の名前をとってそう呼ばれる。同法では、預金銀行業務と証券業務の兼営を禁止していたほか、連邦準備制度加盟銀行が証券会社を系列に置くこと、兼務する役員を置くことなども禁止していました。これらの規制は99年の金融制度改革法(グラム・ビーチ・ブライリー法)によって改定されています。つまり、金融持株会社は、証券業務、保険業務、ミューチュアル・ファンド業務、マーチャント・バンキング業務など、法律に規定される本来の金融業務とともに、それらの業務に付随する業務、補完的業務なども営むことができるようになりました。また、一定の条件を満たす国法銀行は、金融持株会社を設立することなく、金融小会社を通じてこれらの業務を営むことができます(20条の廃止)。あわせて証券の発行、引受けを主たる業務として行う証券子会社などの役員・職員の兼務も認められることとなりました(32条の廃止)。しかしその後、金融危機が繰り返し起って来たのは周知のとおりです。97年アジア通貨危機、98年LTCM、2000年ITバブル。
4.マネーは寝かせてはおけない
「音楽が鳴っているうちは、踊りつづけないといけない」。経営悪化の責任を取ってシティグループの最高経営責任者CEOを辞したチャールズ・プリンスはこう述べている。業界では 2006年の段階でサブプライムローンの危うさは指摘されていたということです。バブルと分かっていてもバブルがはじけるまでは逃げ出すわけにはいかない投資家の心理を表しています。個人投資家は難しい局面では一時休むことができるが プロはそうはいかない。まさにマネーは寝かせてはおけないのです。
金融業界、いやアメリカ全体の報酬体系が雇われギャンブラーになっていた。あなたがギャンブラー会社の社員だとする。毎日パチンコ屋か競馬か丁半博打のどれかに行く資金は会社持ち、毎日の成績は問わないが 1か月でマイナスになるもしくは成績がビリになると首になる。もちろん社員なので負けた分について事後的に請求されない。ただし、儲るとあがりの2割もらえる。とすると、あなたはどれを選ぶでしょうか。
こうしてものすごい勢いで増殖してきた金融資本が実体経済をも拡大してきた。金融機関関係者の消費の拡大。土地価格の上昇によるホーム・エクィティローンによる消費の拡大。消費の拡大がさらに消費の拡大を呼ぶという循環をなしていた。日本の高度成長期には投資が投資を呼ぶという循環が成立していた。
アメリカの実質GDPに占める個人消費の比率、97年66.7%がボトムでピークは72%。この差約5%は、アメリカ国内で設備投資をしてきたのではなく他国が設備投資をしてきたことを意味する。他国(輸出国)の輸出量が減り、設備が過剰になるということです。
では、この間輸出で景気を浮揚させてきた日本が内需拡大に舵を切り替えられるのかについて、問題点を整理してみよう。
まず政策当局が内需拡大を追求してきたのだろうかということを検討する。日銀の超低金利政策はどうか。金利の引き下げ圧力が続いてきたが、圧力をかけた側は金利を下げることでなにがしらの経済の浮揚効果があるかの言説を振りまいてきたが、0.1%や0.2%の違いに有意な差が認められるわけではない。例えば、事業資金を1000万円借入るとすると利子は1万円で 普通の経営者ははっきりいってそんなことは考慮しない。ではなぜ長期にわたって超低金利政策にしておいたのか。第一に円キャリートレードでアメリカが投資資金で使えるからだ。第二に国債の利払いには金利が安い方がいいからだ。第三に金利が安いと円安になるから輸出企業にとって有利になる。しかしドル、ポンドもここまで低金利になると 第一、第三の効果はなくなる。だから、もともと超低金利政策の目的が内需拡大にあるのではなく、円安経路を通じて大企業を有利にすることが主眼であったのである。それももう期待できない。
田岡俊次氏(朝日新聞記者、軍事評論家)の説を検討する。「日本は輸出依存度が高いといわれるが、国内総生産GDPに対する輸出額は、06年で14.9%。中国36.7%、韓国36.7%、ドイツ38.9%、フランス21.7%などと比べ格段に低く、主要国では米国の7.9%に次ぐ低さだ。日本の対米輸出は輸出総額の20%、GDPの約3%。家計支出と住宅建設がGDPの約60%を占める日本はすでに内需中心の経済で、輸入価格の下落を生かして内需を拡大し、雇用を確保する手はありそうに思われる。」(AERA08.12.29)
他国と比べて意味はないとは言いませんが、各国もそれなりの事情があってそのような数値になっているので、一概に他国に比べて少ないので内需中心の経済だといわれてもいかがかと思われます。問題はこの間の輸出依存度の変化なのです。01年に10.56%だったのが07年には17.61%まで上がってきております。
田岡氏の論理は 円高で輸出が減っても輸入の金額が減るから何とかなるのではないかということですが、ことはそう簡単にいかないと思います。金額的にみればそうかもしれませんが、輸出産業に携わった労働者の働き口が確保されるわけではないので、当面相当のデフレ圧力が作用すると考えられます。対アメリカのGDP比を取り上げていますが、中国経由の部品の輸出等もかなりありますし、今回は世界同時不況なのでアメリカの分が多少減ってもという議論は成り立たないと思います。小泉構造改革によって輸出する大企業には有利な経済体制に組み換わっていますので、この不景気の中 内需拡大といってもそう簡単にいくものではありません。
戦後世界経済が金融恐慌への道程ということで整理しなおすと次のようになる。
第一幕:変動相場制に移行することで金融自由化の流れに入った(金融恐慌が発生する条件はできた)
第二幕:アメリカはマネタリズムでインフレの鎮静化に成功するが、利潤率の回復には成功しなかった。しかし製造業の衰退に反して金融部門は拡大していった。
第三幕:金融資本市場でのキャピタル・ゲイン狙いでリターンを高めるようになった。
第四幕:過剰資本が自分自身の重みで自滅した。収奪する対象を食いつぶしてしまった。
5.現状認識-危機なのか、恐慌なのか
ガルブレイスが『大暴落1929』の中で次のように述べている。「29年の秋が深まるまでは景気はさほど落ち込んでいなかった」。29年恐慌の時もフロリダの土地バブルとその崩壊、株式バブルとその崩壊、そしてその後の産業恐慌という流れです。今回も2006年からの地価の下落から始まっています。英語では景気後退をrecession 長期にわたる深刻な不況をdepressionといいます。前者は循環的なもの、後者は構造的なものといってもよいかもしれません。恐慌の訳語は 通常panicが当てられますが、経済用語としてはdepressionの方が適切かもしれません。29年恐慌はThe Great Depression(大恐慌)という。金融危機とは金融システム全体におよぶ機能不全。信用不安・資産価値の下落・資本流出などによる金融システムの機能不全が、相乗的に作用して悪循環が止まらなくなること。この悪循環のことを信用収縮という。貸したお金が返ってこないのではとみんなが心配するので金利が急上昇する。この間LIBOR(ロンドン銀行間資金調達金利 6ヶ月物は短期金利の指標として使われる)とのクレジット・スプレッドがかなり上乗せされた金融機関が発生した。そしてそれが実体経済に影響をおよぼしだした段階で金融恐慌となる。その実体経済が実体経済に影響して、さらに消費・投資の減退、失業の増大、貿易の縮小という段階にまで至ったのを経済恐慌(産業恐慌)と定義しておこう。
(1) 金融危機→(2) 金融恐慌→(3) 経済恐慌という流れです。
第一段階で止める名人が前FRB議長マエストロ・グリーンスパンです。得意技はモグラたたきです。第二段階でも止められると豪語するのが現FRB議長ベン・バーナンキです。でも彼は学者ですから次の著書にはたぶんこう書くでしょう「2009年恐慌では金融資産が実物資産に見合う水準に減少するまで終わらなかった」。
アメリカでは個人の金融資産の構成比における債券・投資信託・株式の割合が5割を超えているので、今回の金融恐慌の影響が日本に比べて資産効果という点では大きい。また年金もいわゆる401kという確定拠出年金(資産の運用によって支払額が変動する)で運用している部分がかなりあるので、年金生活者にもすでに影響が出始めている。消費を控えようという心理的な部分と収入そのものが減ったということで、すでに消費が大きく落ち込んでいる。
アメリカ労働省によると、去年12月の失業率は前月比0.4ポイント増の7.2%で、16年ぶりの高い数字となった。また職を失った人は12か月連続で増え続けていて、去年1年間で計258万9000人に上り、1945年以来最悪となった。こういう観点からして現状は金融恐慌という段階であると判断される。
6.終わりの始まりは始まるのか
「一般的に言って、大暴落の原因を説明する方がその後の大恐慌を説明するよりはるかにやさしい。恐慌の原因を究明しようとすると、株の暴落が果たした役割を評価するのが非常に難しい問題となる。」(前掲書174p) つまるところ、第二段階から第三段階にかけてはいろんな要素がからんできて 一直線の展開ではないということなのです。
結論から言うと「直ちに全面的な経済恐慌に転落するとはならないとしても、数年間ないしはそれ以上の景気後退の継続は不可避であろう」。島崎流に危機を連発して明日にも大恐慌が起こるかのように言うより 「科学的分析として今言えるのはここまでである」の方がよっぽど凄味があると思いませんか。
繰り返しになるが、米帝の唯一の強みであった金融というカードが使えなくなったということが、今回の事態の最大の問題である。だからそういう意味でも金融危機ではなく金融恐慌なのです。まあ、違った金儲けの方法を考えつけば別ですけど。そこら辺を注目して分析していけば明確になっていくと思います。今のところ日米とも株式市場は昨年の底値より戻していますが、これはオバマ期待で様子見というところでしょう。どういう政策をやるか見ものです。健康のための標語にこういうのがある「一に運動、二に食事、三にタバコを吸わないで、最後に薬」。長年不健康な暮らし(収入以上の支出)をしてきたアメリカにとってサブプライム問題はタバコの煙みたいなものでしょう。もう薬に頼るしかありません。しかも劇薬です。薬はよく効くほど副作用が強い。クスリはリスク。今年は経済学の大実験が見られる。最後に一言、竹中平蔵氏には新大統領にアドバイスしてもらいたい 「改革をとめるな!」と。
Posted by わいわい通信 at 16:43│Comments(0)