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わいわい通信

2013年11月01日

「温故知新」さんへの返答

「温故知新」さんへの返答
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 9月号の「『部落の起源』について」に 「温故知新」さんがブログ上で批判的意見を述べられたので 返答・反論を書きました。2回やりとりがありました。それを再録します。ブログを見ている方はスルーして下さい。
 「温故知新」さんは 最初に「部落問題というのは、身分制であると主張されておられると理解しました。そもそも『部落』なる語は、明治期の『特種部落』(後に『特殊部落』)なる語が、経済的困窮層が集中して住む『貧民部落や細民部落』とは『別の存在』として表現するために用いられたのが始まりであるとされています。ですから、『その前の時代に部落問題など存在しない』というのが、私の見解です。… 部落民が『穢多の子孫』あるいは『穢多・非人の子孫』として差別されてはいますが、江戸時代以前の身分制は既に解体されていること。にもかかわらず、『穢多・非人』身分の人々やその子孫が、日本社会の中で孤立し、特別な存在として実在しているかの誤解が部落差別の基本であると私は理解してきました。あなたの主張と正反対の認識です。」と述べられ 質問という形をとって批判されています。
 論争を鮮明にさせるために 以下論点ごとに批判-返答の順に書きます。

◇ 温故知新さん 「身分制であるのなら、<誰が、どのような基準で、いかなる手段で創  ったのか>を明らかにしていただけないでしょうか。…制度として存在している限り  は、それなりに明確にされた、誰が部落民であり、部落民でないのかという基準があ  るはずですね。」
⇔ <誰が、どのような基準で、いかなる手段で創ったのか>を明かにしてほしいと述べられていますが 8月号と9月号を併せて読めば 私がそれについて述べていることは 誰だって分かると思うのですが。
 秀吉が 武士の支配(封建制)を再確立するために 勅命講和後も戦い続ける一向宗の人々を 天皇の名でもって天皇制の奴隷=戦争捕虜にあたる「カワタ」身分に落としたのです。基準は戦争捕虜であり 手段は戦争です。一向宗との戦いは 「支配か自治か」をめぐる絶対戦争であって だから信長はそれまでは皆殺しにしたのです。
 その「カワタ」身分が 江戸時代には「穢多」と呼ばれ 明治のはじめは「新平民」 明治の中頃以降は「特殊部落」と呼ばれただけです。呼び名は時の権力者によって変わったが 秀吉・徳川・明治のどの権力者も天皇を担いで自らの支配の正当性を語ったため 天皇制の身分制度が続いてきたのです。
 明治のはじめにつくられた壬申戸籍には 華族・士族・卒族・平民・新平民という身分を表す族称が記載されています。新平民が 新とあるように江戸時代平民でなかった人々(穢多や非人の一部)を指すことは明らかです。また「特殊部落」は すべての国民を侵略戦争に動員するために使われだした呼称です。
 だから 部落なる語は明治に創られたから その前の時代に部落問題など存在しないと考えることは 観念論以下です。呼称が変わっただけなのに その時に初めて創られたとしたら 当然、基準も手段もわからないと思います。
 身分制度を考えるときは 民衆内の身分だけでなく 支配階級の身分をも併せて考えないと正しくは理解できません。言いかえれば 天皇制を考慮にいれていない見解は 支配階級・権力者のウソに乗せられているだけだということです。
【追加】 私が問題にしているのは 制度がなぜ創られたのかです。なぜなら 制度が創られていなかったなら ある人が部落身分に落とされることは有り得ないからです。そして 制度を創るのは支配者だということです。社会的な差別意識が創った論は 支配-被支配の関係・階級対立を見すえられない奴隷根性だと思います。

◇ 温故知新さん 2信の最後に「『観念論以下』とのお言葉を頂いたので、それに対する  お礼として、荒く、長くなってしまいました。」
⇔ 「観念論以下」と言ったことに腹を立てられたようですが あなたは 部落という言葉が出来たときに部落問題が起こったと述べられています。いまの科学で 現代人の祖先は15万年前に生まれたことが明らかになっています。しかし 「ヒト」や「人間」という言葉・概念はおそらく5000年程前に成立しています(「我々」に相当する語はもっと古いと思います)。15万年前から5万年前までの人類(5万年前の人類はクロマニヨン人で 日本人の感性語にはその残滓があるといわれている)は ヒトや人類ではなかったのですね。
【追加】 逆に言えば 部落という言葉がなくなったら(言い替えたなら)部落問題・部落差別はなくなるのですか。戦後の憲法は「法の下での平等」をうたっています。だが現在も 狭山差別裁判にみられるように 部落差別は依然として残っています。

◇ 温故知新さん 「あなたのように、部落問題を身分制と位置づけ、上部構造の問題だと  するなら、二つの大きな問題が生じます。一つは、資本主義にとって身分制は不可欠  のものではありません。世界には身分制がない資本主義国はいくつでもありますから。  となれば、資本主義のもとで部落問題解決が可能であるという主張になってしまいま  す。もう一つは、『賃労働と資本の廃絶のプロレタリア革命がおきても、「部落差別  はなくならない」という論理となる。』と同志会指導者を批判する清水議長の主張と  重なる点です。清水議長の主張は、階級闘争全般に部落解放運動を隷属させるもので  しかありません。資本主義のもたらす各種の矛盾は、賃労働と資本の廃絶によってそ  の解決の条件が整うのであって、単純にそのまま矛盾が消え去るものではないと考え  ます。」
⇔ 一について いまの日本資本主義・帝国主義が 資本主義のままで天皇制をなくせるとでも考えておられるのですか。アメリカでさえ 戦後、天皇制をなくしたら革命が起こると思ったから 天皇制を残したのです。天皇制を不問にして 天皇を頭に戴だく戦後民主主義に依拠して問題を考えていたら 日本革命など永遠に出来ないでしょう(これまでの左翼の根本的限界です)。
 二について 清水が天皇制について何かを言ったという記憶はありません。本多さんは明治政府を「天皇制絶対主義から天皇制ボナパルティズムへ」と規定していますが(私は正しいと思います)。清水は 日本帝国主義(資本主義)が部落を創り出した論です。私から言わせれば あなたと清水は 天皇制と無関係に部落は存在(残存)する論として 同じではありませんか。
 部落は天皇制の身分であって 9月号には書いていませんが 天皇制の解体抜きに解消されることはないと考えています。「貴あれば賎あり」とは言われましたが 「貴」と「賎」が一つの身分制度としてあるとは これまで言われたことはないと思います。私は 天皇制の身分制度はアジア的生産様式での支配・統治形態にその基礎を持っていると明らかにしたのです。だが 2回のあなたのコメントには 天皇あるいは天皇制という言葉は一度として出てきていません。私から見れば それは天皇制への屈服以外の何ものでもないということです。
 
◇ 温故知新さん 「非人等に関しては、米騒動の警察記録などで『特殊部落』と扱われて  いるケースがある程度あります。しかし、一ヶ所を除いて、現在では部落として存在  していません。数十から百を超える世帯を抱えていたにもかかわらず、現在ではほぼ  消滅しています。他方、『かわた』系の地区は、2戸・3戸といった少数の地区であ  っても、部落差別を受け続けています。これは、いわゆる未指定地区も含めてです。  何故このようなことが起きるのでしょうか? あなたの身分制説で説明できますか?」
⇔ 読んで分かりませんでしたか。私は カワタ・穢多・特殊部落は天皇制の身分で(呼称は変わったが) 非人は天皇制の穢多をまねた幕府の「身分」ですと述べています。当然幕府を否定(打倒)した天皇制明治政府が 幕府の制度・「身分」を継続するわけがなく 天皇制の身分制度だけを 先進諸国の理解を得られる形(華族制度しかないかのようなごまかし形態)に変えて維持したのです。

 基本的考え方が問題と思うので あなたが述べられている個々の問題については触れません。日本資本主義が天皇制をその支配の要にすえた以上 封建制をこえて天皇制の身分制度・身分差別は激烈化すると思います。個々の問題の正否は あなた自身が基本的考え方で整理できたとき、自分でつけられると思います。
 私は 『資本論』Ⅱ巻・Ⅲ巻の理解、『経済学批判』の序文にある唯物史観の定式(公式)・アジア的生産様式の理解、日本古代史(天皇制批判)で これまでとは全く異なる(新)説を唱えています。この(新)説でもって 社会民主主義(第二インター)とスターリン主義によって歪曲されてきたマルクス主義を正しく再生したいと考えています。その辺りまで理解してもらえたら有難いです。




Posted by わいわい通信 at 00:05│Comments(1)
この記事へのコメント
ここまで見事にまとめられていて、すばらしいです。
様々な課題がありますが、とにかく課題にまともに取り組む政治を作ることが必要ですね。
Posted by tappou at 2015年09月18日 13:29
 
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