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わいわい通信

2015年01月01日

『資本主義の終焉と歴史の危機』を読んで

『資本主義の終焉と歴史の危機』を読んで
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 水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書 2014.3 740円)を 読みました。筆者は 現在は大学の教授ですが 「三菱UFGモルガン・スターンレー証券チーフエコノミストを経て、内閣府大臣官房審議官、内閣官房内閣審議官を歴任」(本書)した経歴の持ち主です。肩書は経済学者ではなく、資本主義を是とするエコノミストなので 立場性の違いを感じ、これまで氏の著作は読んだことはありませんでした。今回友人たちが読んでいるのを知り 話につき合わねば…と思い読みました。

 内容は題名『資本主義の終焉と歴史の危機』が示す通りであり 資本主義を是としてきたエコノミストがここまで言うかと驚きました。資本主義の終焉の論拠に 長期にわたる超低金利をあげ 投資してももはや利潤がでないのだから資本主義は「死」を迎えていると言いきり さらに 歴史を振り返り 長期にわたり金利が超低率であった16世紀は封建制から資本主義への転換期であったことから 21世紀は資本主義から新しい制度に転換する時代だと述べています。そして ハード・ランディングではなくソフト・ランディングを考えるべきだとして それなりの案を展開しています。
 本書の「おわりに」で 筆者自身が 自説をまとめているので抜粋します。
   日本の10年国債利回りが1997年に2%を下回ってから20年近い月日が
  経とうとしています。…… その後も一向に2%を超えない。ITバブルで景気
  が回復しても、戦後最長の景気拡大を経験しても、国債の利回りだけは2%を超
  えない。
   一体なぜ、超低金利がこれほど長く続くのか。その謎を考え続けていた時、歴
  史の中に日本と同じように超低金利の時代があることに気づきました。それが「
  長い16世紀」のイタリア・ジェノヴァで起きた「利子率革命」です。
   「長い16世紀」に起きた「利子率革命」は、中世封建制の終焉と近代の幕開
  けを告げる兆候でした。だとすれば、日本で続く超低金利は、近代資本主義の終
  焉のサインなのではないか。
   そんな仮説を携えて、「長い16世紀」と現代とを比較してみると、単なる偶
  然では片付けられない相似点が次々と見つかり、現代は「長い16世紀」と同様
  の「歴史の危機」にあることを意識するようになっていきました。……
   いくら資本を再投資しようとも、利潤をあげるフロンティアが消滅すれば、資
  本の増殖はストップします。そのサインが利子率ゼロということです。利子率が
  ゼロに近づいたということは、資本の自己増殖が臨界点に達していること、すな
  わち資本主義が終焉期に入っていることを意味しています。
   この「歴史の危機」を直視して、資本主義からのソフト・ランディングを求め
  るのか、それとも「強欲」資本主義をさらに純化させて成長にしがみつくのか。
   後者の先にあるのは、破局的なバブル崩壊というハード・ランディングである
  にもかかわらず、先進諸国はいまなお成長の病に取り憑かれてしまっています。
  資本の自己増殖が難しくなって以来、国境の内側や未来世代からの収奪まで起き
  るようになりました。その代償は、遠くない将来、経済危機のみならず、国民国
  家の危機、民主主義の危機、地球持続可能性の危機という形で顕在化してくるで
  しょう。……

[図1・省略 経済覇権国の金利の推移]

 資本主義を是としてきた人が 「もはや資本主義は終った」と言いきっているのですから この10年間「資本主義の終わり論」(「ひとくち評論」掲載のブログ名)を展開してきた私としては 意を強くしました。もちろん 論証の仕方はまったく異なりますが。私は マルクスの再生産表式に依拠して展開していますが(先月号を参照) 筆者は 資本の儲けである利子率と資本主義の「周辺」の有無に注目して展開しており いわば現象論と言えます。また私は 資本が自ら死を選ぶことはないので、ハード・ランディング(革命)以外有り得ないと思っています。この点も異なります。

 マルクスは 過剰生産・過剰資本の壁にぶつかったとき追加貨幣があると恐慌は緩和できると述べていますが それは 生産物の販売=想定通りの利潤が実現できなければ仕入れた原材料の支払いができず、倒産の連鎖が引き起こされるが 追加貨幣があれば(あるいは貸付貨幣資本が借りれれば)支払いができるので倒産の連鎖が断ち切れることを意味しています。しかしこの策だけでは 原因の過剰生産は解消できません。だから マルクスは 過剰は部門Ⅱ・消費材生産で生じ、部門Ⅰ・生産材生産は過少になるので 恐慌を通して資本が部門Ⅱから部門Ⅰに移動する、同時に生産性の向上(資本の有機的構成の高度化)が生じると述べています。マルクスは 論理的に明らかにするために一つの「閉じられた」経済圏をモデルに論じているので 理論的・本質論的にはこの結論が正しいのですが 現実の過剰・過少の手っとり早い「解消」は 過剰な消費材を外国に売りつけ、足らない原料・生産材を国外から手に入れれば良いわけです。つまり 資本主義は 生産性の向上(搾取の強化)と国外の商品市場・資源(生産材)市場の拡大を存命の条件としているのです。だから昔から 資本主義は過剰生産のハケ口が外部(「周辺」)になければ成り立たないと言われてきましたが 現実論としてはその通りだと思います。なおレーニンは 初期には一国での資本主義の自立的発展論を唱えていますが 『帝国主議論』で帝国主義間戦争の必然性を論じ、外部への侵略必然論に転換していると思います。
 
 筆者は 「1974年にイギリスと日本の10年国債利回りがピークとなり、1981年にはアメリカ10年国債利回りがピークをつけました。それ以降、先進国の利子率は趨勢的に下落していく」ので 「資本主義の終わりの始まりは 1974年だと考えています」と述べ 「空間を拡大し続けることが、近代資本主義には必須の条件」だが 「アメリカがヴェトナム戦争に勝てなかったことは、『地理的・物的空間』を拡大することが不可能になったことを象徴的に表しています。」と述べています。先月号で 戦後の帝国主義(資本主義)は74、5年恐慌と08、9年恐慌を境に3期に分けられ、第1期は実物経済の発展(産業資本が基軸)と述べました。筆者は 「地理的・物的空間を拡大することが不可能になった」と実物経済の発展が行き詰まったと確認しています。展開の根拠は異なりますが 実物経済の発展が行き詰まったという認識は同じです。また筆者は 74年を「資本主義の終わりの始まり」とされているので 実物経済の発展が行き詰まったとき資本主義は終わりを迎えたと考えておられるのだと思います。
 資本主義の現実の終わりの段階である第3期を 私は08、9年恐慌からとしていますが 筆者は 「日本の10年国債利回りが1997年に2%を下回って…」と97年からとしています。97年とはアジア通貨危機を指しますが それはヘッジファンドによる金融操作によって作られた危機(バクチと同じ、一方が得をし他方が損をした状態)であって 世界的な危機になっていないので やはり08年のリーマン・ショック後に「終わりの段階」に入ったとする方が正しいのではと思います。
 第2期について 私は 過剰生産に陥り行き詰まった経済を、公的資金=国債による架空の貨幣の投入で維持・発展させようという弥縫策が可能であった時期と述べましたが 筆者は 「電子・金融空間による延命」と実にユニークな論を展開されています。「本来は1970年代に『終焉の始まり』を迎えたはずの資本主義を、アメリカは『電子・金融空間』を創設することによって、その後、30数年にわたって『延命』させてきたのです。… その動きは、とくに1990年代以降、顕著になっていきました。… その上でBRICSに代表される新興国の近代化を促すことによって、新たな投資機会を生み出そうと目論んだわけです。」と 行き詰まった実物空間とは別に新たに電子・金融空間が創られたから「30数年にわたって延命」できたと述べています。そしてその新興国の成長は輸出主導で成り立っているので 現在米欧が停滞し、それゆえ新興国の成長は鈍化しており電子・金融空間も行き詰まったと展開されています。

[図5・省略 資本主義の構造の変化]

 私の感想は「現象論的にはそういう説明になるのかな…」という感じです。「電子・金融空間」など現代的表現が使われているので 案外納得する人が多いのではと思います。まだ読まれてない方は 是非読まれることを薦めます。

 最後に気になるので一点。筆者は利潤率と利子率を同じものとして扱っていますが マルクス経済学から言えば 両者は別のもので、当然その数値も異なります。生産物の一般形式はC+V+Mですが 『資本論』Ⅲ巻的に言えば Cは固定資本分C0 と流動資本分C1 との2つに別れ 利潤=剰余価値Mは利子と企業者利得に分かれます。だから利潤率はM/(C1+V) ですが 利子率は貸す貨幣資本家と借りる産業資本家との競争で決まります。過剰生産で売れなくなると借りる人が増え当然利子率は高騰します。12月1日米格付会社ムーディーズが日本国債を第5ランクに下げました。返す見込みがないという水準です。本来なら金利が10%にハネ上がってもおかしくないのですが 景気の低迷で新規投資にお金を借りる人がなく 日銀が大量に国債を買っているので 0.5%という超低利になっているのです。
 なお 利潤率は剰余価値率M/Vに対応しており これだけ賃金が下がり、合理化で生産性が飛躍的に高度化しているのですから 当然相当な高率になっています。利潤率と利子率を同一視すると 労働の搾取度の強化が見えなくなります。




Posted by わいわい通信 at 00:04│Comments(0)
 
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