アクセスカウンタ
プロフィール
わいわい通信

2015年07月01日

血債の立場・思想、加害者性の自覚について

血債の立場・思想、加害者性の自覚について
――――――――――――――――――――
 4月号に「生産様式と宗教について」を書きましたが 「抽象的で、現在の階級動向をどう見ているのか解かりにくい」という意見があったので もう少し現実の政治に引きつけて イスラム国(IS)について述べたいと思います。

 私たちは 1970年7月、華青闘の糾弾を受け、自己批判し 血債の立場・思想を自らの思想的深化として明らかにしました。私たちは 65年の日韓闘争以来、ベトナム反戦闘争においても「加害者性の自覚(あるいは否定)」を根本テーマの一つと見なしてきたので 華青闘の糾弾には驚きましたが 中央の自己批判はすぐに受け入れたというか、自己批判したのでホッとしたという感想です。当時 60年闘争から70年闘争への飛躍を 被害者性から加害者性の自覚への転換と提起していたと思います。社共など旧左翼と新左翼とを区別する論点でもありました。
 いま安倍政権の侵略戦争賛美や改憲の戦争推進政治によって中国や韓国との間がギクシャクしていますが 中国や韓国は「歴史認識」を問題にしています。過去の帝国主義的侵略を本当に反省しているのかとの問いかけは 同時に いま現在の日本の帝国主義的在り方およびその下で生活し、それを批判しきれていない民衆・運動側の思想も問われていると思います。つまり 血債の立場・思想は 現在の日本の帝国主義的・侵略的在り方そのものを問うものです。血債の立場・思想を贖罪(犯した罪を償うこと)的にとらえることは 過去の話だけにズラし、現在を問わないということであり 間違っています。
 社会運動や革命闘争は いまの社会の在り方を変えたいと客体的・対象的に問題を立てて決起し、宣伝していますが 根本は 自己存在の否定を客体の否定として実現しようとするものです。具体的にはいまの労働の在り方を考えてみて下さい。資本主義下の労働者は 企業に勤め給料をもらっています。つまり賃労働です。時間決めで自らの労働(正しくは労働力)を売ったが故に 自らが作りだした生産物は資本(家)のモノなのです。実際に労働し生産している労働者は 資本の指示に従って労働させられており 生産の主人公ではなく 賃金奴隷なのです。この自己存在を資本主義社会を是認した上で破棄しようとすれば 会社勤めをやめ失業・飢え死にしかありません。だから 賃金奴隷としての自らの在り方の破棄(自己解放)は 資本主義社会というシステムをなくすことによってしか実現できないのです。
 他方 現代資本主義は74、5年恐慌を境に大きく転換しています。74、5年までは戦争による破壊からの復興ということで 実体経済(生産を軸とした産業資本主義的在り方)が基軸でしたが 74、5年以降はその発展が行き詰まったが故に貸付貨幣資本(それも架空の)へと基軸を移しました。以前のように生産拡大で分け前(収入)を増やすことが不可能になったため 投機つまり他人のものを奪取することで自らの儲けをだそうとするようになったのです。それを典型的に示しているのが詐欺の横行です。騙してでも取った方が勝ちという訳です。真実ではなくウソ・詐欺が大手を振る時代になったのです。集団的自衛権の行使を合憲と言いはる安倍はペテン師ですが 安倍だけでなく社会の在り方全体がウソ・ペテンの社会なのです。とっくに破綻している資本主義経済を借金(国債)で生き延びさせているのです。その国債の発行残高はGDPの2倍にもたっし、もはや返済は不可能です。しかも 商業手形や小切手は商品=生産物や貯金の裏付けがあってはじめて発行できますが 国債には何の価値的裏付けもありません(政府が計画し議会が承認すれば発行できる)。しかし一度市場に出れば 貸付貨幣資本に転化し利子をとります。他人から略奪・収奪する根拠になるのです。この様な時代は 実物ではなく通貨が基準になっているので 帝国主義下に存在する自らの加害者性が見え難くなっています。カネを払ったからいいだろうです。だから帝国主義国での運動は かつて以上に自らの加害者性の自覚が問われていることを押し出す必要があると思います。
 以上の視点を確認して 展開したいと思います。

 イスラム国(IS)が関係する2つの事件、フランスの週刊新聞シャルリー・エブド襲撃および1.11抗議デモと日本人人質2人の殺害について述べます。
 日本人人質とくにジャーナリストの後藤さんを死に至らしめたのは 安倍の戦争推進政策です。12月初からイスラム国と後藤さんの家族との間で身代金をめぐる交渉が行われていました。安倍政権は 身代金を拒否するだけでなく 家族を含め言論統制に伏し、情報を秘匿し その情報が公然化するのを阻んだのです。そして安倍は中東を歴訪し カイロでイスラム国と戦っている国々を支援すると発表し イスラエルではイスラム国をテロ集団と非難したのです。つまり「自分たちは君たちの敵だから人質は好きにしろ」と言い放ち、イスラム国に後藤さんを殺害するようにしむけたのです。戦争推進政策に民衆をまき込むために(追風を吹かすために)行ったのだと思います。だから 後藤さん殺害の第一の下手人は安倍と安倍政権なのです。このことを曖昧にしてはなりません。
 農耕民性の強い私たちは 切腹=自死を認め、死者にムチ打つことを控える文化を持っています。だから 原因や真実を究明しどちらが悪いのかを考える前に ともかく殺した奴が悪いとなりがちです。だが 狩猟民(遊牧民)性の強い地域では 自殺を否定し、生きるためには殺すか殺されるかの文化が強いのです。こうした地域で 私は君たちの敵だと宣言すれば 当然殺されます。湯川さんは 民間軍事会社を立ち上げ銃を携行してイスラム国の支配地域に入って行ったのだから 殺されても仕方がなかったのです。人質として処刑されなくても いずれ戦場・戦闘で殺されたでしょう。私たちが問題とすべきは 自らの金儲けのために他人を殺害するという絶対許されない民間軍事会社の人を行かせてしまった、国内で拘束(説得によってですが)できなかったということだと思います。
 フランスのシャルリー襲撃および1.11デモで考えるべき第一は シャルリーのイスラム教・ムハンマド風刺画はヘイトスピーチだということです。どうしてヘイトスピーチに表現(言論)の自由があると言えるのかです。しかも再三「警告」が発せられていたのに シャルリーはイスラム風刺画を繰り返し掲載していたのです。フランスの人々に問われたことは 襲撃以前に自らの手でシャルリーのヘイトスピーチを止めさせることではありませんか。1.11デモは370万人も集まりましたが 「私はシャルリー」に示されるように このデモは表現(言論)の自由を口実にヘイトスピーチを認めろというものです。370万の巨万の人が集まったからといって 1ミリも賞賛できるものではありません。もしヘイトスピーチにもテロにも反対というのなら 別個に独自のデモとして展開すべきなのです。
 フランスの370万人は 大阪都構想の住民投票での橋下支持と同じく 帝国主義が先の見えない危機に陥っているが故に 帝国主義にNOを言うのではなく、身も心も帝国主義に一体化させて生き延びようとする人々が増えているという現実を 突きつけていると思います(いわゆるファシズムが登場する情勢です)。だからこそ最初に述べたように帝国主義国では加害者性の自覚を促さねばならないのです。

 イスラム国(IS)をどう考えるかの視点は
 第1に 最初に述べたように 日本は中東に対しては中立ではありません。日本社会を支える膨大なネエルギーのほとんどを中東石油に依存しています。しかもその石油は 米欧のメジャーから買っています。米欧は 中東石油を支配するために 戦後一貫して軍事侵略・制圧を続けています。日本の石油がそれに依存しているだけでなく 日本は海外唯一の自衛隊恒常的基地をジブチに置いているのです。日本は 中東軍事制圧の構成員であり 米欧と同じ侵略帝国主義として存在しています。
 第2に これまで運動圏では後進国の民衆運動は民族解放闘争と規定してきましたが イスラム国の運動は 民族解放闘争ではなく、自己権力確立運動と規定すべきだと思います。彼ら自身も国家をつくる運動と述べています。もともとイスラム圏を民族でくくることは不可能です。実に多くの民族がイスラム教を信仰しています。
 そもそも 民族という概念は 資本主義の成立期に 市場を確立・拡大するために 関所など封建的桎梏を解体するために打ち出された虚偽のイデオロギーです。4月号で述べたように DNA分析から現代人の形成過程が明らかになりましたが それから言えることは 民族という概念は科学的には絶対説明つけられないということです。しかも レーニンが『国家と革命』で明らかにしたように 資本主義はその後の進展にともなって 国家を民族的・種族的にではなく地理的に区分してきたのです(アメリカを見よ)。資本の勢力圏確保を正当化する昔の古い虚偽のイデオロギーが 民族という概念です。
 自己権力確立運動と規定することで2つのことが言えます。1つは 未来社会の実現に向けて「自己決定権の行使→自己権力の確立→全民衆の解放」と進んで行きますが そのコース上にあるということです。全世界から多くの若者がイスラム国に参加していますがその根拠はこの点が感じられるからなのです。2つは 全民衆の解放を実現するためには搾取や収奪をなくし社会的生産を生産協同組合的に組織し すべての民衆が生産の、そして社会の主人公へと飛躍しなければなりません。この方向性がなければかつてのソ連のように新たに権力を握った人たちは 民衆の反乱を恐れ、強権的弾圧政治を行うことになります。イスラム国がどちらに向かおうとしているのかは今のところ解りませんが 帝国主義国で帝国主義打倒の闘いが起こらない限り 未来に向かうことは困難をきたすと思います。
 そもそもイスラム教が成立した頃は「コーランか税金か剣か」と言われていました。税金を払えば他の宗教を信じていても共存できたのです。いまのイスラム国に そのような余裕はないと思います。帝国主義とそのカイライ政権による軍事制圧の中で自己権力を確立しようとしているのですから やむを得ません。そもそも自己権力の確立は 既存権力の打倒を含んでおり、かつ民衆自身の古い習性を払拭する暴力的行為なのです。
 第3に宗教について。宗教の本質は 心の問題ではなく、支配を正当化するイデオロギーだということです。支配のためには 暴力だけでなく 支配を正当化し、民衆が支配を受け入れるイデオロギーを必要とします。それが宗教なのです。
 4月号で述べたように 宗教はアジア的生産様式か奴隷制的生産様式のもとで起こりました。アジア的生産様式での神は支配者の先祖だから ストレートにそう言えます。奴隷制の全盛期に成立したキリスト教は 民衆および奴隷の宗教として広がりましたが 弾圧しても弾圧しても広がったのでローマ皇帝はキリスト教を公認せざるをえなくなったのですが 公認した途端に自らの権力を正当化する道具にされてしまいました。奴隷制の後を継いだ封建制では 神聖ローマ帝国と呼ばれたように 各封建領主はローマ法王(皇帝)から承認されることで 自らの支配の正当性を唱っていたのです。奴隷制の末期に成立したイスラム教は 「コーランか税金か剣か」に示されるように 共同体的在り方を内包しながらも、はじめから支配を正当化するイデオロギーとして登場しています。
 だから イスラム国がイスラム教を掲げて自己権力を確立(国造り)しようとしているのは 当り前・当然のことなのです。
 宗教が心の問題になったのは 資本主義になってからです。資本主義での支配の基軸はおカネであって 封建時代までのように家柄ではありません。家柄からおカネに転換した結果「信仰の自由」が唱えられだしたのです。だからイスラム国に「信仰の自由がない」と批判することは 自己権力の確立を諦め、資本主義に屈服せよと言っているようなものです。シャルリーのヘイトスピーチを認めろというのと 同じことなのです。
 第4に 第3とも関連しますが 民主主義や人権などの概念は 資本主義を是とし、資本主義を維持するための理屈だということです。だから 資本主義の支配者を民主主義や人権に違反していると批判することは間違いではありませんが それ以外の人々を同じように批判すると間違いになります。
 5月号で紹介した的場昭弘氏も言われるように 民主主義や人権には2種類あります。民主主義の2つとは 議会制(間接)民主主義と直接民主主義です。両者はまったく別モノ、相対立するものです。直接民主主義は自己決定権の行使と言えなくもありませんが 議会制(間接)民主主義は 自らの決定権を代議員に委譲するものであり、自己決定権の放棄になります。さらに言えば 民衆全員を買収することは不可能ですが(だから民衆に対してはペテンを弄する) 一握りの代議員なら買収は簡単です。辺野古新基地建設反対を掲げて当選した仲井真前沖縄県知事が最後に建設容認に踏み切った裏切りを見れば 説明はいらないと思います。人権の2つとはフランス革命で確立した「私的所有=資本の自由」と「人間らしく生きる権利」との2つです。的場氏が詳しく説明しているので 5月号の抜粋を見て下さい。平和という言葉も 安倍のように「武力による制圧で作り出す平和」と「武力を必要としないで共存できる平和」と相反する意味で使われています。
 問題は こうした相反する2つの意味で使われている言葉を区別をつけずに使うと 支配者が使う言葉の意味で理解されるということです。支配者の、資本のイデオロギーを宣伝していることになります。

 4月号の結語の繰り返しですが 問われているのは イスラム圏の人々ではなく帝国主義国(先進国)の労働者・民衆の、それも未来は共産主義だと考えている人たちの闘いです。その不十分さを横に置いて 「残虐さ」を問題にしたり、逆にすばらしいと「賞賛」することは間違っていると思います。彼らを追いつめている状況を解決する=取り除くことが問題なのです。血債の立場・思想とは 存在としての自らの加害者性を鮮明に自覚する考えです。



Posted by わいわい通信 at 00:03│Comments(0)
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。