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2015年09月01日

『展望』の杉田四郎「新自由主義を考える」を読んで

『展望』の杉田四郎「新自由主義を考える」を読んで
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 今月号は 後半に 花山君の「2015年下期景気動向分析」を載せているので 併せてお読みください。

 革共同再建協の機関誌『展望』16号に 杉田四郎君が 「新自由主義を考える」を書いています。あとがきで「ハーヴェイや渡辺治の論を批判的に検討した提起をベースにした。論として ①<帝国主義間の争闘戦→世界戦争へ>という論の一面性を指摘した部分と ②ハーヴェイの<略奪的蓄積>にこだわった。」と述べているように ハーヴェイの論を渡辺治に依拠して整理し かつ渡辺治が重視していない<略奪的蓄積>論を整理しようとしたものと解されます。
 ①についての杉田君の結論は 「『帝国主義間の争闘戦がストレートに→世界戦争へ』とは言えないが、帝国主義と戦争は不可分である。また、この戦争は帝間戦争に転化しないとはいいきれない。」というものです。
 そして 新自由主義を「社会の存続さえ前提としない一個の『世界体制』、資本主義の一『局面』である。」「『米帝の覇権の崩壊期にとられる危機乗り切り攻撃』であり、『解体しつつある資本主義世界システムの最後の局面』と規定できる。」とし 「そのキーワードは『略奪的蓄積』にある」とまとめています。

 新自由主議とは 世間では 杉田君が水野和夫を引用している様に 「政府よりも市場の方が正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方」と言われていますが この「市場の方が…」という主張は 真っ赤なウソです。「自由」とは 資本が無制限に儲ける自由であって、民衆の自由ではありません。確かに 資本主義の初期・発展期のイギリスなどでは生産拡大が可能だったため自由主義(夜警国家)が唱えられましたが 過剰生産に陥り・発展が行き詰まったときには 資本は儲けるために労働者を低賃金に落し込め、長時間労働を強制し・他方で失業者をどんどん増やしていきます。「正しい資本配分」ではなく、資本による無制限の搾取・収奪の増大です。しかも 国家を使ってでも儲けようと海外市場の拡大を追い求め、戦争を引き起こしてきたのです。
 だから私は 新自由主義とは 74、5年恐慌以降貸付貨幣資本(利子生み資本・金融資本)が基軸となった現代の資本主義・帝国主義において 貸付貨幣資本が自らの儲けを追求するための口実であり 虚偽のイデオロギーだと(理論ではないと)思います。
 杉田君は「リーマン・ショックで新自由主義は破産したといわれたが、生き残り、再稼働している。」と述べていますが 「破産」とは 「政府よりも市場の方が正しい資本配分ができる」と言ってきた論理が危機の前に破綻し、われ先に国家による救済(公的資金の注入)を求めたことを指しているのであって 「再稼働」とは 貸付貨幣資本が自分の儲けをつくりだそうとする口実・へ理屈は どれだけ「論理」の破綻が明らかになろうが、それ以外にないということを示しています。

 貸付貨幣資本・利子生み資本とは 『資本論』では 産業資本の循環G-W(Pm+V)…P…W'-G'の外にあって 産業資本に貨幣を貸付け 産業資本が生産で得た利潤(剰余価値)から利子を受け取り 自らを増殖させる資本と規定しています。『資本論』は資本主義経済の骨格(基本)を展開しているので、産業資本に貸すとなっていますが 現実的には 貸付貨幣資本にとっては貸す相手は誰であってもよく、儲かれば=より高い利子が取れればよいわけです(例えばサラ金)。
 貸付貨幣資本・利子生み資本を考える場合 貸付貨幣資本の貸す面と借りる(集める)面との両面から見なければなりません。『資本論』で「銀行が重きを置くのは預金だ」と指摘していますが 貸付貨幣資本どおしの競争では 資金力(預金高)の大きい方が圧倒的に有利で かつ危機対応力も大きくなるからなのです(アジア通貨危機の後、日本の都市銀行は合併を繰り返し3系列に統合されました)。貸付貨幣資本は あの手この手で他人の貨幣をかき集めます。預金だけでなく金融派生商品の販売や保険・年金の勧誘など。他方貸出先は より高い利子で貸せるところであればどこでもよいのです。さらに 儲けが出そうな貸出先が見つからなければ 他人に貸さないで自ら投機に走ります(例えば株の売買や為替の利鞘かせぎ)。つまり 低い利子でお金をかき集めより高い利子の所に貸付け、その差で儲けを出そうとしているのが 貸付貨幣資本・利子生み資本なのです。
 問題は 利子が産業資本(生産と流通)で新たに創られた価値(利潤・剰余価値)から出ているのなら 儲けの資本間の配分の問題にすぎませんが サラ金の場合は民衆の生活費から払われているので 収入の少ない人にとってはサラ金地獄に投げ込まれます。リーマン・ショックの引金になったサブプライムローンで見ると 貸した相手は低所得で本来ローンを組めないが自らの家を持ちたいと思っている人たちで ローンを考えた金融機関が借りた相手は 米欧の銀行をはじめとする金融機関です。初めの低利率のときはローン返済は行われていましたが 2、3年たって倍の利率にハネ上がったとき返済が滞る人が出てきました。つまり 貸した相手から利子が入らなくなり、借りた相手に利子が払えなくなって ローンを考えた金融機関は倒産に至ったのです。そして その債権を購入した米欧の金融機関が次々と連鎖的に危機に陥り ローンを返済できなくなった人たちは買った家を手放さねばならなくなりました(ホームレス化)。
 ここから言えることは 一つは 貸付貨幣資本の貸出先が 産業資本からそれ以外に向いだすと(ましてや投機に向いだすと) 資本主義の発展が行き詰まりだしたということを意味しています。二つは そうなると 新たな価値が生まれていないにもかかわらず、貸付貨幣資本は利子を絶対的に取るので 払えなくなった企業や個人は倒産・破産に追い込まれます。つまり実体経済の破壊です。相手がどうなろうと俺には関係ないと利子を取る貸付貨幣資本の強欲さが 「略奪的蓄積」と写るのだと思います。
 なお私は 「略奪的蓄積」規定は正しくないと思います。いま見たように「略奪的」はそのとおりですが 「蓄積」というのは違うと思います。貸付貨幣資本は 個別資本でみれば増大していても 社会全体でみれば増大(蓄積)はしていません。他人のものを(他人の褌で)利子という名で横取りしているだけです。配分が変わっただけで増大はしていません。さらに 『資本論』では蓄積は価値での増大を指し、拡大は実物での増大を指していますが 貸付貨幣資本の増大は紙切れ(借用書・権利名義)の積み上げであって 架空性の増大・膨張にすぎず、価値の増加とはとうてい言えないと思います。

 問題のもう一つは 商業信用(手形など)と銀行信用(貸付貨幣資本の貸出し)とはまったく別物だということです。商業信用は 自己の資本の増大を第一に考えているはずだという産業資本家どおしの「信頼」にもとづく流通における信用の連鎖ですが 銀行信用は 貸す銀行と借りる企業・個人との1対1的関係の集合に過ぎません。商業信用で担保を取ることはありませんが 銀行信用では特別な場合を除き必ず担保を取ります。担保を取るということは 相手が必ず返してくれると信用してはいないということです。つまり信用ではなく不信の「蓄積」です。
 宇野が 『資本論』Ⅲ巻5篇:利子生み資本論を信用論と言い変えることで 商業信用と銀行信用の絶対的対立性を消し、銀行(貸付貨幣資本)を必要なシステムと見なすことで資本主義の擁護に転落したことが 理解できると思います。
 だから 銀行信用は 国家権力による支配=社会秩序の維持があって初めて成立するのです。返さないとき 国家(司法および行政)が代わりに差押えをするという訳です。かつて サラ金・マチ金が暴力団を使って悪らつな取り立てを行ない、自殺や一家離散の悲劇が引き起こされていることが話題になりましたが 一般的な基準の数倍いや数十倍もの金利(トイチ・10日で1割、年率では365%)で貸し付けているから 国家権力に頼れず、暴力団に依拠していたのです。つまり 貸付貨幣資本は 暴力・軍事的制圧を背後にもたない限り存在できないのです。
 念のために言えば 新自由主義的に考えている人ははじめから国家権力を利用して儲けようと考えています。にもかかわらず「小さな政府を」「市場にまかせろ」と唱えるのですから サギ・ペテンそのものです。例えば 民営化とは 税金によって国営や自治体名でつくられた公営事業(民衆全体の財産)を資本に安く払い下げ 資本に儲け口を与えるものです。大阪市で唯一の黒字である地下鉄を 橋下は民営化しようとしたのです。都構想・「二重行政解消」は それをスムーズに行うために 大阪市民の代弁者という仮面を維持しようとする大阪市議会を無くそうとするものだったのです。だから 民衆は だまされることなく、そのサギ・ペテンを見抜き 奴らが何をしようとしているのかを考え切らねばなりません。

 74、5年恐慌で資本の基軸が産業(生産)資本から貸付貨幣資本に転換しましたが この転換は 帝国主義の戦争に対する考え方をも変化させました。74、5年以前は実物経済が主だったので (再生産表式で明らかにされたように)足らない原材料を略奪し、過剰に生産された消費財を押し付けるための勢力圏が絶対的に必要だったので領土を奪い合う戦争として帝間戦争が生じましたが いまは グローバル経済として貸付貨幣資本が儲かると思えるところには自由に出て行ける権利・制度と、貸した金は必ず取り立てるという強制力としての軍事が問われているのです。だから 現象論的には 杉田君が抜粋しているように「アメリカ帝国の最も大きな特徴は、それが領土的支配ではなく純粋に基地の帝国である」と見えるのです。つまり アメリカは 経済的に見れば 自らの金融資本(貸付貨幣資本)の利権が脅かされそうになると(例えば石油取引をドル以外の通貨でしようとすると) 軍事攻撃・戦争で相手を叩き潰してきたのです。
 他方 ロシアや中国は 上海株式市場の乱高下が話題になっていますが、いまだ貸付貨幣資本が基軸になっているとは言えず 実物経済での拡大を追い求めています。中国の狙いは資源確保であり、ロシアの狙いは石油や武器の輸出だと思います。


2015年下期景気動向分析
―――――――――――――            花 山 道 夫
 は じ め に
 上期の報告で、今年の注目点として、中国の過剰生産力の問題とグレグジット「ギリシャのユーロ圏離脱」を挙げたが、ギリシャについては国民投票までして緊縮策反対を決めたにもかかわらず、大して変わらない内容でEU側と妥協したことによって小康状態を保っているが 時間稼ぎに過ぎない。「今すぐギリシャが出ていくとスペインに飛び火するかもしれない、スペインの状況が改善するまでギリシャにEUにとどまってほしい。EUの分裂は困る」とドイツは考えているようです。よってこの問題は先延ばしになったということです。一方、中国問題はいよいよ深刻になってきました。中国は経済規模でみると2014年のGDPは10兆3803億ドルなので日本の2.25倍、ギリシャは0.05倍なので影響力という点ではダントツなのである。それに加えて変動率が大きいのですでに日本の企業業績にも変調が表れている。例えば ファナックも中国向け組み立てロボットの需要が急減し、業績見通しを下方修正した。半導体製造装置大手の東京エレクトロンも下方修正し、両銘柄の株価は一日で10%以上急落する展開になった。ただし、中国問題は取り上げません。中国発の世界恐慌は不可避であるというのはやりません。注目しておいて下さいというのに留めておきます。

Ⅰ 「経済の金融化」とは何か
 過剰資本、過剰生産とひとくくりでいうことが多いが、過剰資本は恐慌でも起きない限り減らないが 過剰生産はPOSシステム等を利用して一定程度は調整できるのではないかと思う。過剰消費は収入が減れば起きない。問題は過剰設備投資だが シャープの液晶工場にみられるように 一歩間違えば企業の存立危機に直結するだけに慎重になるだろうが 見込み違いというのは資本主義である以上さけられない。ただし、投資する場合でも自己資本の内でとなると金融の役割が低下していくのである。つまり、間接金融から直接金融のながれである。最近では投資といっても買収が多いので お金は動くが実物の投資が出ない案件が多い。国内総支出GDEは消費と投資(固定資本形成[+在庫])に分かれるが そのうち民間の設備投資の割合は若干の変動を繰り返しながら減少している。1960年に18.2%となり70年には21.0%で過去最高を記録している。74年に18.4%を最後に18%台を下回っていたが 1989年に18.3%、翌年から19.3%、19.6%、18.1%と4年連続で高い率が続いたが その後徐々に水準を下げ2012年は13.8%となっている。国内投資の総合計である総固定資本形成も1973年の36.4%がピークで2012年は21.1%となり この10年間でみると20%台で安定している。
 「経済の金融化」とは 金融部門の利益が産業資本の作り出す剰余価値と無縁なところで蓄積していくことを言う。またそうせざるを得ないところに追い込まれているとも言える。
 先に挙げたように実物投資で儲からないので 金融から直接儲けようとする動きが強まった。生産過程を経て資本が儲けるのを搾取という。金融機関が生産過程(商業資本も含む)に融資をして儲けるのを利潤の分配という。金融機関が労働者に貸し付けて暴利をとる場合を略奪という。例えばサラ金、サブプライムローン等が挙げられる。ここまでは合法である。オレオレ詐欺は非合法。

 おいらはそんな手には乗らないという方に、儲けようとして[逆に]略奪されるという例を紹介しよう。
 まず株式投資について検討すると NISA(少額投資非課税制度)というのがあるが、これは撒き餌みたいなもので 初心者を鉄火場へ誘うお得なクーポン券みたいなもので 小金持ちをこの世界に引き込んで金融資本にもうけを提供しようという政策である。素人が増えるとプロの勝率が上がるという面もある。株投資やFX(外国為替取引)で誰でも儲かるみたいな話を書いているが、損した人は本を出さない。それはさておき、日経新聞とかは今年中に日経平均が2万***円になるとかしょっちゅう載せているが そんなところは一切見なくてよい、時間の無駄。花山はPERのとこと配当利回りのとこは時々チェックしている。
 PER(price earnings ratioの略)とは株価収益率のこと。投資判断指標の1つ。株価を1株当たり当期純利益で除したもので、株価が1株当たり当期純利益の何倍まで買われているのかを示すものです。株価収益率が高いほど、利益に比べ株価が割高であることを示し、逆に、株価収益率が低いほど、株価が相対的に低いことを示しています。株価収益率の基本的な特徴は、株価の相対的水準を測る尺度として、株式利回りを算出する際に使用する配当金(株主に分配される部分)に代えて、当期純利益を採用していることにあります。
 この値が異常に高い時は要注意である。例えば商社等で資源価格の低下で赤字部門の損切り(1ドルで売却し、なおかつ補償金を支払うということもある)をしたような場合当然株価は下がるが、それが一期限りと見做されるとたいしてさがらないのでPERは高止まりする。金融恐慌等が起こった後始末で全体のPERが上がる時もある。成長期待が膨らみ株価が上昇しPERが異常値を付けることは新興株ではよくある。ゲームの製作会社など。問題は東証一部全体のPERが高い値を付けた場合である。80年代バブル相場ピーク時、日経平均が3万8915円を付けた時のそれは57.2倍であった。この当時は適正な倍率は14から15倍といわれていた。この数字はパーセントであらわすと1÷14=7.1%、1÷15=6.6%になる。これはその時の金利水準と関係するので、現在の16倍は6.2%になるので決して高くない。個々の銘柄を見れば高いのも低いのもあるがそれなりの理由があるが 株の教室ではないので解説は控える。恐慌が起こる前には必ずこのPERが上昇する。ただし上昇したからといって恐慌になるわけではない。つまりバブルが証券市場にとどまっている限り恐慌にはならない。ITバブルのピーク時のそれは77.0倍であったが実体経済の上昇を伴っていなかった。

 長いふりになったが、株式市場ではバブルが発生していないが不動産市場ではバブルが発生している。特に不動産賃貸の市場で顕著である。この一年ぐらい中古物件市場で値上がりが著しい。遠因としては 低金利下で資産運用をしようとしたとき株は値下がりすることもあり、また個別銘柄の選択は難しい、投資信託などは手数料を払うためにやっているようなもので儲からないということがあると考えられる。不動産は紙切れになることはない。実物が残る。
 直近の上昇の原因は本年1月1日からの相続税制の改正があげられる。
改正前:5000万円+1000万円×法定相続人の数
改正後:3000万円+600万円×法定相続人の数
 基礎控除が6割に縮小された。改正前は、相続税の申告割合は4%(1
00人亡くなると4人)程度でした。この改正により、6%程度に上昇すると言われている。現金で持っているとそのままであるが、賃貸住宅を持っていると評価額が下がるので、相続税を支払うのを回避もしくは少なくしようとして賃貸住宅投資をしようとしたプレーヤーが増えたことが背景にある。
 例えば 積水ハウスの受注は 2014年12月分で全体では対前年比16%の増であったが、低層賃貸住宅(シャーメゾン)のそれは43%と大幅な増となった。つづく15年1月も22%と好調であった。最近は少し落ち着いてきている。ただし、これが賃貸住宅投資のブームが落ち着いたことを意味しない。なぜなら市によっては規制がかけられていて賃貸住宅の新築が難しいところがあるので、中古物件の価格が上昇しているから。表面利回りで6%を切るような物件が出回っている。例えば5000万円の物件だとして計算してみると6%の利回りとすると年間家賃収入は300万円になるが火災保険料や管理費、固都税(固定資産税、都市計画税)、修繕費等を差し引くと物件にもよるが250万円を切る。取得費は仲介手数料が物件価格3%+6万円に消費税がかかるので約168万円になる。また移転登記費用さらに不動産取得税がかかる。これらを合わせて再計算すると実質利回りは4%を下回る。これは全額自己資本でまかなった場合で金融機関からの借り入た場合は金額と金利にもよるが最終的には3%ぐらいの利回りになるのではないか。あくまでこの計算は満室の場合で、空きができればキャッシュフローがマイナスになることも想定される。また古くなれば家賃を下げないと入居者が集まらないこともある。ではこのような物件に金融機関は融資するのでしょうか。答えは条件による。融資の場合、その収益性が高いことがなりよりであるが、銀行は人物を評価して決めるからである。といってもその人の経営能力ではなくて属性を見るからである。例えば一部上場企業に5年以上勤めているとかである。これならアパート経営は赤字でもとりはぐれる恐れはない。水野和夫ではないがそれこそ利潤率ゼロの世界だ。モトイ、利潤を金融資本に全部持っていかれる略奪の世界だ。
 物件の高騰にはもう一つ原因がある。東京オリンピックの開催が引き金となった。東北の震災復興で資材も人材も不足していたところに、オリンピック関連で建設費が上昇すると東京の賃貸物件の価格が上昇した。といっても、元々土地の値段が高いので賃貸価格をそんなにあげられないので、東京の投資家が地方の物件を狙いだした。しかし80年代のバブルの時のようにどこでも上がるわけではない。日本全体では人口は減少期に入っているので都市圏だけである。大阪市でいえば人口の増えている環状線の内側、会社の社宅等で使えそうな物件が上昇しているようである。一時はこのブームも東京オリンピックまでといわれていたが、最近ではとてもそこまで持たないということになっている。人口減少社会では地方はフロンティアにはならない。以前は敷金、礼金はきっちり取られていたが、今は敷金なしが普通。礼金なしもある。この時点で過剰設備投資になったのである。
 資本の金融化の例として、仕組債やCDS等を例に挙げることが多いが複雑で分かりにくいので、この賃貸住宅投資もその一例として取り上げた。ただし、あんまり儲からなくなったことは確かであるが、利潤を確実に出しているところもあるということは付け加えておく。この業界では長年、家賃収入のことを不労所得と呼んでいたが、片手間でやっていけるような甘い世界ではなくなったと言える。
 最後に極端な例をあげておく。資産運用と入れてネットで検索すると、すぐ上の方に出てくるのに「最長35年間の家賃保証システムで安定収入」。物件の一例として 「1Kマンション、価格2500万円、頭金250万円、金利2.15%(2014年11月時点)。期間35年間で家賃収入月9万円に対して、支出がローン返済76,277円、集金代行手数料2,916円、管理費6,500円、修繕積立金1,000円で実質月額収入3,307円で12カ月×35年で合計収入1,388,940円になり ローン完済後、マンションはご自身の資産になり、その後は、家賃全額分をご自身の収入にすることも可能です」と。はっきり言ってこれは悪徳商法の部類に入る。ただし、合法ですが。
 まず、35年保証であるが、入居者が入らないときは家賃を下げるという条項が契約書に必ず記載がある。一定程度古くなったときはリフォームという条項も入っている。これでまたリフォーム代として搾り取られる。35年後は建て替えも検討しなければならない時期で、土地代の値打ちしかない。マンションの1Kは25㎡ぐらいが多いが坪数になおすと7.5坪位になるが、10階建てだとすると0.75坪分にしかならない。共有部分等も入れてせいぜい2坪くらい。頭金が取り返せるかなというぐらい。所得費用や税金とかもろもろを入れたら確実に赤字になることを花山不動産は保証します。

Ⅲ ピケティのマルクス理解
 今年の1月31日に東京大学でピケティと佐藤優が対談している。以下佐藤優『いま生きる階級論』からの引用。
 佐藤:ところで、マルクスの『資本論』では、「労働力商品」のみが価値をつくり出す特殊な性質を持つことになっています。この点についてどう考えますか。
 ピケティ:「労働力だけが価値をつくり出す」というのは、どういう意味なんでしょう。「生産物から生じるもうけはすべて労働者が得るべきだ」ということでしょうか。私有財産が地上から廃絶され、そこから利益を得られなくなれば、原則としてもうけはすべて労働者がえることになり、それのうちどれくらいを(生産を増やすための)再投資に回すのかをみんなで決めることができます。ですが、私有財産の廃絶というのは間違った「答え」だと思います。私有財産をなくせば、たとえば官僚に権力を与えることになり、労働者がよりいっそうの自由を得ることにつながらないからです。
 正直、マルクスの『資本論』はとても分かりにくく、あいまいです。読むのはとても苦痛です。「労働力商品」についてマルクスが何を言いたかったのか、私にははっきりわかりません。
 【花山のコメント】マルクスの理論について、それは違うというのは理解できるが、解らない、つまりきっちり読んだことがないというのには驚いた。CAPITAL in the Twenty-First Century(英語版)と マルクスのCapital: a critique of political economy(英語版)とまぎらわしいタイトルを付けたのに恐れ入った次第である。「経済理論はなるべく完全な歴史的情報源にもとづかねばならないのだ。この点で言えば、マルクスは当時使えたあらゆる可能性を活用しきっていない」(トマ・ピケティ『21世紀の資本』p9)。ものすごい自信だが『資本論』を経済学や経済学史ではなくて経済史の資料として読んだということだと思います。この本を読んでいて苛立ったのは論理構成力が弱いということだ。だから、前回も言ったように資料的価値はあるが、それ以上は期待できない。
 話は元に戻るが、経済統計では搾取率とか剰余価値率とか利潤率とかは出てこない。労働分配率という統計はある。前回、法人企業統計年報から利潤率を計算した。搾取率とかは計算している学者もおられる。理由はここでは説明しないが、あまり意義があるとは思わない。労働分配率というのは付加価値のうち、資本側と労働側の分配ということなので、「労働力商品」のみが価値をつくり出すという視点が抜けているので、資本の側はこれだけ出しました労働の側はこれだけ出しました。あなたは能力がこれくらいしかないのでこれだけしか払いませんということになるわけである。
 もう一点指摘しておくと利潤というタームがマルクス経済学のそれとは違うということである。水野よりましだが。
 「資本収益率は、1年にわたる資本からの収益を、その法的な形態(利潤、賃料、配当、利子、ロイヤルティ、キャピタル・ゲイン等々)によらず、その投資された資本の価値に対する比率として表すものだ。だから『利潤率』よりも広い概念だし、『利子率』よりはるかに広い。この両方を包括する概念だ。」(ピケティ『21世紀の資本』p56-57)
 賃料の場合は企業が借りた場合は利潤から払われるが、個人が借りた場合は個人の収入から支払う。地主、大家が法人の場合と個人の場合とは少し異なる。配当は利潤の一部が充てられる。こういう連関を明らかにするのであれば資本でよいが、ピケティの場合は資産収益率とした方がよい。本の題名も『21世紀の資産』とすべきであった。
 個人の場合には金融資産は殆んどないが、持家が資産の大半を占めるという場合がある。この場合資産収益率といわれても納得されない方のために説明しておきます。とあるマンションでAさんとBさんが住んでいて評価額が共に2000万円、Aさんは自己所有物件でBさんは月10万円で借りているとすると年120万円になる。税金等を除外して計算するとBさんとこの大家Cさんは年率6%で資産運用していることになる。そこでAさんも自分に貸していることにして年率6%で資産運用していることにするわけです。実際に国民経済計算(GDP統計)においても家賃の受け払いを伴わない自己所有住宅(持家住宅)についても、通常の借家や借間と同様のサービスが生産され消費されるものと仮定して、それを市場家賃で評価し計上している。これを帰属家賃という。また、帰属家賃には、給与住宅等における実際の家賃と市場家賃との差額の評価分も含まれる。つまり住宅自己所有者が住宅賃貸業を営んでいるとみなして、家賃相当額を個人企業の生産額として考え、不動産業の産出額と家計最終消費支出にそれぞれ計上される。

 佐藤は この後こう続ける。少し長いが解かりやすい説明なので引用する。
 「ピケティ氏の発想では、資本家は資本を持っているから利潤、労働者は『労働』(労働力ではない)を持っているから労賃、地主は土地を持っているから地代というように、所有に応じて報酬を受け取るという単純なモデルで経済システムを理解することになってしまう。米国の名門大学を卒業し、投資銀行に勤務している30歳のディーラーが年に3億円かせぎ、日本で中堅大学を卒業し、正社員として就職した30歳の若手の年収が300万円であるのは、持っている『労働』の能力が違うからということになる。『資本論』を精読して、マルクスの階級論を理解していれば、人間の能力と収入の関係は直接つながらないことがわかる。年収300万円の会社員は労働者階級に属し、労働力商品の対価である賃金を受け取っている。これに対して、3億円の報酬を得ているディーラーは、資本家階級に属し、利潤の分配を得ているのである。」(前掲書p9)
 「『21世紀の資本』は理論的な枠組みとしては、率直に言って箸にも棒にも掛からない水準のものだと思います。ただ、近代経済学の枠の中から、『資本主義というのは危ないんじゃないか』『資本主義の格差は矯正不可能だ』といった見解が出てきたのは面白い。」(前掲書p216)
 【花山のコメント】佐藤の意見に全面的に賛成である。自分に都合のいい論理を展開していると裏もとらずに引用する方がおられるが、水野、ピケティ両氏ともいろいろ問題点があるので否定する必要はないが、慎重に扱った方が賢明である。

<注> Ⅱ 水野和夫・利潤率について の報告は 紙面の都合で省略しました。

  


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2015年08月01日

『革共同政治局の敗北』を読んで

『革共同政治局の敗北』を読んで
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 新聞に 水谷保孝・岸宏一著『革共同政治局の敗北 あるいは中核派の崩壊 1975~2014』の広告が載っていたので 3200円は高いなと思いつつ、見ておかねばまずいと思い すぐ買いに行った。パラパラっと見て 反省という言葉は繰り返し書かれているが、なぜそうした間違いを犯したのかという水谷ら自身の総括(下向分析)はまったくなされていないと思いました。その後、何人かの人から感想を聞かれたので「清水丈夫に対する恨み・辛みの連続で 読んで得るものはまったくなかった。何よりも3.14で与田だけでなく自分たちも打倒されたという根本がいまだ解っていないと思われる」と答えました。しいて本書の「意義」と言えば 与田の腐敗(財政問題とスパイ問題。私党化には触れていない)は共産主義者として絶対許されない行為であると断定していること(にもかかわらず3.14は党内クーデターとして否定している)と 清水や天田のデタラメさ(党運営・指導の核心が自己保身にすぎない)の暴露ということくらいか。前者は水谷ら3.14に反対した人たちへの天唾であり 後者はいまだ清水・天田を最高指導部に仰いでいる中央派への批判の意味をもっていると言えなくもありませんが。

 3.14とは 2006年3月14日に 関西の中核派のメンバーたちが 当時政治局員で関西の最高指導部であった与田ら3名を打倒・追放した決起です。あとの2名は 与田の「子分、ボディガード」としてメンバーに暴力的に振るまっていた人物と 関西の財政責任者として与田の財政的腐敗を支えていた人物です。清水を先頭とする政治局は 与田の私党化と財政的腐敗は見えない振りをして、与田の関西指導にお墨付きを与えていたのです。3.14当日は関西の指導部会議が予定されていたのですが 天田は与田から連絡を受け急遽前夜に関西入りして与田らとフラクり、与田体制を護持するためにわざわざ関西の会議に出席しようとしていました。その後1年たらずの間に 中核派は中央派(安田派)、再建協(関西派)と3.14反対派(水谷ら)に3分解しました。
 私は事前に決起の呼びかけ人になって欲しいと誘われたのですが 「与田打倒には大賛成だが中央打倒の方針がないから同意できない」と断わりました。「与田を打倒すれば中央は解るはずだ」が 誘った人の返事でした。
 水谷らは本書で 3.14を路線・方針の対立であるかのように述べていますが 問題はそれ以前の 指導部自身が共産主義者たらんと自らを律しているのか、内部で繰り返し詐欺を働く人物をトップに据えておくのかという革命党としての根本問題だったのです。他人を騙して己が得をしようとする詐欺は 相手を主体として認めないことであり 民衆の一人ひとりが社会の主人公・主体になることを求める共産主義とは 絶対に相入れないのです。  
 3.14で知って驚いたことが2点あります。1つは なんと与田は権力のスパイを個人秘書にしていたのです(個人秘書がいること自身がおかしいのですが)。しかも 今回本書でわかったことは 政治局は当時その事実を知っていて査問しようとしたが 与田がそのスパイを意図的に逃がしたというのです。にもかかわらず 政治局は与田を処分もせずに不問に賦したのです。この時点ですでに政治局は死んでいたのです。もう1つは 政治局員の安田は事前に3.14決起を知っていて 結果を見て判断するから何もせず傍観しているようにと関西のメンバーに指示を出していたことです。最高指導部集団である政治局が 互いに同志としての信頼性を投げ捨て、権力争いの場になっていたのです。それを創り出したものこそ 清水自身の細胞性を否定する権力指向なのです(自己保身はそれの現象です)。水谷らは政治局内に左派と右派のフラクション的対立を持ち込んだのは安田だと述べていますが それも清水の姿勢が安田に鏡として写し出されただけなのです。 
 3.14を突きつけられて政治局で自己批判をしたのは清水ただ一人でした。天田や安田は 3.14が自分たち自身を否定するものだと判っていたから 「政治局の総意として清水がしたから」と自己批判を拒否し まず3.14賛成派の振りをして水谷ら3.14反対派を排除し 続いて決起した関西派を排除したのです。その結果 中核派は3分解しました。安田が3.14直後から関西のメンバーに働きかけているのは知っていましたが 本書で清水が水谷に「3年で復権[党内ヘゲの奪還]するから」と言ったと知り やはり清水もそうだったかと再確認しました。共産主義者としての己自身が問われているのに 政治局には誰一人、自らのエリを正そうとした人はいなかったわけです。水谷らも 直接には天田・安田に追い出されたため、そこだけに目がいって 本質的に3.14で打倒されたということがいまだ、本書でも解っていません。
 水谷らは 3.14はクーデターであり党内民主主義を否定・破壊するもので、民主的手続きで解決すべきだったと述べていますが すでに死んでいる政治局に意見書を出したとしても 解決能力はありません。スパイを「救済」した与田を処分できなかった政治局に なにかを期待する方が間違っていると思います。政治局内のヘゲモニーをとるために互いにかばい合うだけでしょう。つまり 意見書を提出した人が組織から排除されて終わるだけです。
水谷は組織内暴力は絶対許せないと言っているので その点について言えば 一般論はそうですが 指導部がメンバーに振るう暴力とメンバーが指導部に振るう暴力とはまったく別物です。指導部がメンバーに振るう暴力は メンバーが指導部を信頼しているのに振るわれるわけで それは指導部の説明・説得の不十分さ、論理矛盾をごまかすためのもので 絶対認められません。他方 メンバーが指導部に振るう暴力は 指導部に対する信頼が最後的になくなったときに振るわれるのです。だから その問題で指導部が間違っているのなら この暴力は正義なのです。それが革命の論理です。
 残念ながら 対立が路線・方針の是非を争うものでなかったために 明瞭な対立にならず 一人一人が考える視点を持てず 全党員を混迷の中に陥れたと思います。そしてその後 それぞれの自らの立ち位置を正当化するために路線・方針の変更が行われ 中央派も3.14反対派も内部引締めだけのカルト集団に転落して行っています。中央派ではいまも再建協と関係があるのではと査問が繰り返されているそうですが 呆れてしまいます。だが 再建協(関西派)も党を再生させる正しい理論・思想が打ち出せずに停滞していると思います。

 本書は450ページもの大書ですが 政治局内の対立や清水提起の方針のジグザグ性が連綿と書かれていて なぜ政治局が死んでいたのかの根本原因は書かれていません。確かに 直接的には清水の権力指向・自己保身が原因ですが 水谷らはその清水を支えていた(正しくは清水の権威にすがってメンバーに指図していた)のだから 個人をこえた根本原因があるはずです。
 それは 革命を目的としながらも 打倒対象である現在の資本主義・帝国主義の基本動向をまったく対象化できなかったことだと思います。実際本書でも 情勢分析あるいは時代認識らしきものは一言も書かれていません。革命は民衆自身がやるものですが 情勢論・時代認識の欠落は 対象=資本主義だけでなく主体=民衆の動向も見ようとしていないということです。これでは宗教(現代の)と同じであり カルト集団に転落するしかありません。当時の情勢に対応した「戦後世界体制の根底的動揺の開始」あるいは「段階・過渡・変容・危機」の論理・認識があったから 70年闘争は爆発・闘えたのです。
 もう1つは 未来に向かう民衆の自主的組織形態(生産協同組合を基本とした)を提起できていないことです(今回は略)。
 これまで何回か述べてきましたが 資本主義・帝国主義は74、5年恐慌を境に大きく転変しています。資本の基軸が 生産資本から貸付貨幣資本(それも架空の)に転換したということです。それは 民衆自身の即時的判断基準も生産(労働)からおカネに転換したということを意味します。だが中核派は その変化を見抜けずに 昔のまま、金本位制で実体経済時代のレーニン『帝国主義論』を繰り返し煽動してことたれりとしてきたのです。これでは 民衆にソッポを向かれてもいたしかたありません。
 私自身も 97年のアジア通貨危機ではじめて金融資本(貸付貨幣資本)を対象化しなければならいと気づかされたのですが 少なくとも党としては91年のバブル崩壊で気づくべきだったと思います。91年は ソ連の崩壊もあって 今後世界(資本主義・帝国主義)はどうなっていくのかを明らかにしなければならなかったのに 清水は 的外れのエリツィン・ボナパルティズム論を提起し 革命軍戦略から大衆闘争路線(あるいは労働運動路線)への転換を 党の実体的・財政的危機だけから説明したのです。これでは敗北感しか残りません。それでも 被災地神戸の闘いに示されるように 裏から浮上したメンバーは被災者に寄り添って献身的に闘い抜いたのです。
 資本の基軸が生産資本から貸付貨幣資本に転換したということは 実体経済の過剰生産的危機を借金(国債)でまわそうとするものです。確かに初めのうちは借金することで経済が回るので「それもありか」と思われますが 借金が膨らみ出すと全面的な危機に突入します。リーマン・ショックが それを現実に示しました。革命を目指す者としては 事前にそうした事態がおこること、およびその時の民衆の決起・闘い方を提起できなければ ダメなのです。
 問題はなぜそうならなかったのかです。すぐには納得しにくいかと思いますが 根本はマルクス経済学・『資本論』理解の宇野的歪曲にあります。宇野には 流通手段としての貨幣と貸付貨幣資本(利子生み資本)としての貨幣との区別がありません。また当然架空性も マルクスが国債で架空性を説明しているのに 実体経済の影(擬制)としての架空性だけを問題にし(株価や手形による売買など) まったく価値的裏付けのない、生まれ自身が架空である貨幣資本=国債については理解できていないのです。だから当然 貸付貨幣資本(それも架空の)が基軸になった現在の帝国主義を分析・批判する視点を持ち合わせていません。宇野は資本主義を批判する民衆の理論であるマルクス経済学を資本主義を容認する理論に改ざんしたのです。
 このマルクス経済学・『資本論』の宇野的理解・歪曲を党内に持ち込んだのは 清水なのです(本多さんや野島さんではありません)。70年代初頭、学生戦線を中心に宇野の『原論』がはやりましたが 私は 宇野自身が「マルクスとは違う」と言っているのに、かつわが党名自身に「マルクス主義」を冠しているのに 「何で宇野なの!」と不思議でした。仲山良介『資本論の研究』の註を清水が書いたと知り合点がいきました。清水は 自らの力でマルクスの『資本論』に相対するのではなく 自らの権威をつくり出すために高名な学者の間違った説を受け入れて、自らの説とし 党員にその説を押しつけていたのです。はっきり言って 『資本論』理解の2派、すなわち正統派と宇野派の両者とも 『資本論』の理解は間違っています。マルクスの結論であるⅡ巻21章の「資本制的生産の崩壊(行き詰まり)論」がまったく理解できていないのです。拡大再生産はⅠ(V+M)>ⅡCのとき可能ですが 逆にⅠ(V+M)<ⅡCのときには生産が部分的にストップし、拡大再生産は(単純再生産さえも)不可能になります。しかし 追加貨幣があると生産は継続でき 価値法則の制限を越えて過剰生産に陥ります。両者ともこの論理を理解してい
ないのです。その上で宇野派は 賃金の高騰で恐慌が起こるとし(危機の原因が資本でなく労賃にされる)、貸付貨幣資本を分析・批判したⅢ巻5篇利子生み資本論を信用論と言い変えることで マルクス経済学の根本を否定し 資本・資本主義そのものを批判する視点を欠落させたのです。つまり 清水による宇野説の持ち込みによって メンバーのほとんどが 74、5年転換後の資本主義・帝国主義を分析・批判する力を持てなくなったのです。だから 与田や水谷らは 情勢論・時代認識については清水の「御神託」にしがみつくしかなかったのです。これが水谷らが清水を支えた・必要とした根拠だと思います。

 還暦を過ぎもはや運動の最前線にたてなくなっている水谷らが明らかにすべきことは 当時の誤りをすべて清水だけのせいにするのではなく(一面正しいですが) 自分がどの点で間違っていたから清水を支えたのかを下向分析して 新たに運動を担う若者たちに正しい考え方・理論を提起することだと思います。清水批判だけではグチの域を出ません。水谷らは いまだ清水の枠内=論理から一歩もふみ出せていないと思いました。
  


Posted by わいわい通信 at 00:04Comments(1)