2015年11月01日
あるみ君の戦争法案反対闘争の「中間総括」を読んで
あるみ君の戦争法案反対闘争の「中間総括」を読んで
――――――――――――――――――――――――
たたかうあるみ君が 9月末、自身のブログに 戦争法案反対闘争の中間総括を4回に分けて掲載しています。以下は それを読んだ私のコメントです。なお あるみ君の文章は 本人のブログで確認して下さい。
① あるみ君は 60年と今回の差を 「60年は…争点が『安保反対』なのか『強行採決けしからん』なのかが分からず」、今回は「安保法制は『戦争法案』で『違憲』であるにしぼり」と述べていますが それは運動の側が混乱したのではなく 条約と法律の違いで「自然」と生じたものです。つまり 法律は衆参2回の採決が必要ですが 条約は衆院1回の採決でOKなのです(30日後に自然成立)。だから60年の時は 衆議院の強行採決までは「安保反対」だったのが 採決後は「強行採決けしからん」というより「岸打倒」に「自然」に転じたということです。
彼は「7月に衆議院を通過しても、参議院で必ず食い止めようと運動は止まらなかった」と述べていますが この点は60年も全く同じなのです。60年でも衆院採決後、それまでを倍する人が 街頭へ、国会へと繰り出しました。どちらも 衆院の強行採決で民意は踏みにじられ、議会制民主主義が機能しないことを知り 皆が「主権者」として登場したということだと思います。
60年の第一次ブントが崩壊したのは 皆の安保反対の意思が継続できる大衆闘争として「次は何か」を出せなかったことだと思います。
しかし 今回は 法案を実行させない(自衛隊を海外に出兵させない)闘いに継続しているだけでなく、継続させて行かねばならないということです。彼は「10か月は長い」と書いていますが、その通りで 皆の意思を維持するためには ある意味廃止法案の提出だろうと思います。しかし 軸は国会ではなく、街頭に移ったのです。だから 継続した大衆闘争・街頭闘争(大阪は毎月6日に闘争を設定)が必要なのです。水面下で参議院選挙の準備をすることは必要ですが 大衆闘争・街頭闘争を継続することが 皆の意思を解き放つことになるのです。
② そのために必要なことは 「戦争反対」の内実をはっきりさせることだと思います。「憲法違反だから反対」から「戦争そのものをしてはならない」への、「殺し殺される事態を絶対につくらせない」という意思への 飛躍だと思います。
実際 SEALDsの集会での若者の多くの発言は 「戦争反対」でした。もちろん 徴兵制につながる=自分が戦争に行かされるから反対という発言もありましたが。そうした個人の利害からの発想にとどまるのではなく 戦争を必要とする社会の在り方そのものを問題にする立場への飛躍・移行が必要なのだと思います。
今回の戦争法反対闘争では 「日本がアメリカと一体となって世界中で戦争しようとするものだ」と皆が声を大にしましたが なぜ日米はすぐに戦争が始められる戦争体制を作ろうとしているのか、日米の目的は何なのかは ほとんど聞けませんでした。引き起こされる状況説明とともに 何のために、つまり目的の説明が絶対必要だったと思います。
彼は【その4】で「資本主義がクラッシュしかけている」と書いていますが それが実は根本原因なのです。貸付貨幣資本論や新自由主義論でこれまで述べましたが 産業資本に換わって貸付貨幣資本が資本の基軸になるためには ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で明らかにしたように 転換のためには暴力的強制が絶対的に必要なのです。そしてその体制・制度が一旦出来あがると 次々と国債発行で投入される追加貨幣で経済が回っているかのように見えるのですが(何とこれが30年間も続いたのです) 国債発行の限界に近づくと、再び暴力をもって自らの利益の確保と体制の維持に走り出します。金融資本間の争闘戦が いまや再び軍事の段階に突入しようとしているのです。本質的にも 貸付貨幣資本は 返済が拒否されたとき(不可能になったとき)倒産せざるをえないので 返済拒否を粉砕する軍事・暴力の裏付け・行使が絶対必要なのです。
③ 共産党の「国民連合政府」の呼びかけに対し 彼は「非常に厳しいと思う」が、「好意的に受け止められている」と述べていますが この呼びかけは 「主権者」として国会前へ、街頭へと繰り出した巨万の人々を 再び議会制の下(議員、つまり他人頼み)につなぎ止めておこうとするもので 間違っていると思います。また 彼の危惧は ほぼ間違ってはいないでしょう。
集会・闘争では多くの議員が登壇し発言しましたが ほとんどが「応援して下さい」でした。「君たちの決起だけが阻止できるのです」とアジるべきだったのです。議会制が民意を反映せず、機能しなくなっているから民衆が決起していることが 議員には見えていないのです。皆の決起を鼓舞するために牛歩をしたのは 山本太郎議員一人でした。
④ 彼は最後に ブルジョア民主主義革命とプロレタリア民主主義革命の関係を述べていますが この客体的区別で運動=主体を展開するこれまでの発想(レーニンもそうですが)は間違っていると思います。そう問題を立てている限り どこかでブルジョア民主主義革命からプロレタリア民主主義革命への「強制転化」が必要になり その時民衆の意識からの乖離が生じると思います。また 客体的に問題を立てている限り、経験豊富な人の方が客体分析も優れているので 指導部絶対の官僚制を生み出すのではと思います。
だから ブルジョア民主主義革命とプロレタリア民主主義革命とを貫く主体=民衆の「赤いベクトル」を見つけ出し それを宣伝・扇動していくことだと思います。それは 民衆自身の「自己決定権の行使」つまり「社会・生産の主人公として自らを押し出す」ことだと思います。かつての「沖縄奪還」から「沖縄(民衆)の自己決定権支持」に転換した考え方だと思います。
SEALDsの中心的な人たちは 彼が指摘するように周りの「大人たち」の影響で確かにどちらを向いているのか分からない面がありますが 「民主主義とは何か?」のコールに続けて「これだ!」と唱和し、自らのデモを押しだしていました。ここに 自己決定権の行使につながる赤いベクトルを見いだそうではありませんか。
――――――――――――――――――――――――
たたかうあるみ君が 9月末、自身のブログに 戦争法案反対闘争の中間総括を4回に分けて掲載しています。以下は それを読んだ私のコメントです。なお あるみ君の文章は 本人のブログで確認して下さい。
① あるみ君は 60年と今回の差を 「60年は…争点が『安保反対』なのか『強行採決けしからん』なのかが分からず」、今回は「安保法制は『戦争法案』で『違憲』であるにしぼり」と述べていますが それは運動の側が混乱したのではなく 条約と法律の違いで「自然」と生じたものです。つまり 法律は衆参2回の採決が必要ですが 条約は衆院1回の採決でOKなのです(30日後に自然成立)。だから60年の時は 衆議院の強行採決までは「安保反対」だったのが 採決後は「強行採決けしからん」というより「岸打倒」に「自然」に転じたということです。
彼は「7月に衆議院を通過しても、参議院で必ず食い止めようと運動は止まらなかった」と述べていますが この点は60年も全く同じなのです。60年でも衆院採決後、それまでを倍する人が 街頭へ、国会へと繰り出しました。どちらも 衆院の強行採決で民意は踏みにじられ、議会制民主主義が機能しないことを知り 皆が「主権者」として登場したということだと思います。
60年の第一次ブントが崩壊したのは 皆の安保反対の意思が継続できる大衆闘争として「次は何か」を出せなかったことだと思います。
しかし 今回は 法案を実行させない(自衛隊を海外に出兵させない)闘いに継続しているだけでなく、継続させて行かねばならないということです。彼は「10か月は長い」と書いていますが、その通りで 皆の意思を維持するためには ある意味廃止法案の提出だろうと思います。しかし 軸は国会ではなく、街頭に移ったのです。だから 継続した大衆闘争・街頭闘争(大阪は毎月6日に闘争を設定)が必要なのです。水面下で参議院選挙の準備をすることは必要ですが 大衆闘争・街頭闘争を継続することが 皆の意思を解き放つことになるのです。
② そのために必要なことは 「戦争反対」の内実をはっきりさせることだと思います。「憲法違反だから反対」から「戦争そのものをしてはならない」への、「殺し殺される事態を絶対につくらせない」という意思への 飛躍だと思います。
実際 SEALDsの集会での若者の多くの発言は 「戦争反対」でした。もちろん 徴兵制につながる=自分が戦争に行かされるから反対という発言もありましたが。そうした個人の利害からの発想にとどまるのではなく 戦争を必要とする社会の在り方そのものを問題にする立場への飛躍・移行が必要なのだと思います。
今回の戦争法反対闘争では 「日本がアメリカと一体となって世界中で戦争しようとするものだ」と皆が声を大にしましたが なぜ日米はすぐに戦争が始められる戦争体制を作ろうとしているのか、日米の目的は何なのかは ほとんど聞けませんでした。引き起こされる状況説明とともに 何のために、つまり目的の説明が絶対必要だったと思います。
彼は【その4】で「資本主義がクラッシュしかけている」と書いていますが それが実は根本原因なのです。貸付貨幣資本論や新自由主義論でこれまで述べましたが 産業資本に換わって貸付貨幣資本が資本の基軸になるためには ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で明らかにしたように 転換のためには暴力的強制が絶対的に必要なのです。そしてその体制・制度が一旦出来あがると 次々と国債発行で投入される追加貨幣で経済が回っているかのように見えるのですが(何とこれが30年間も続いたのです) 国債発行の限界に近づくと、再び暴力をもって自らの利益の確保と体制の維持に走り出します。金融資本間の争闘戦が いまや再び軍事の段階に突入しようとしているのです。本質的にも 貸付貨幣資本は 返済が拒否されたとき(不可能になったとき)倒産せざるをえないので 返済拒否を粉砕する軍事・暴力の裏付け・行使が絶対必要なのです。
③ 共産党の「国民連合政府」の呼びかけに対し 彼は「非常に厳しいと思う」が、「好意的に受け止められている」と述べていますが この呼びかけは 「主権者」として国会前へ、街頭へと繰り出した巨万の人々を 再び議会制の下(議員、つまり他人頼み)につなぎ止めておこうとするもので 間違っていると思います。また 彼の危惧は ほぼ間違ってはいないでしょう。
集会・闘争では多くの議員が登壇し発言しましたが ほとんどが「応援して下さい」でした。「君たちの決起だけが阻止できるのです」とアジるべきだったのです。議会制が民意を反映せず、機能しなくなっているから民衆が決起していることが 議員には見えていないのです。皆の決起を鼓舞するために牛歩をしたのは 山本太郎議員一人でした。
④ 彼は最後に ブルジョア民主主義革命とプロレタリア民主主義革命の関係を述べていますが この客体的区別で運動=主体を展開するこれまでの発想(レーニンもそうですが)は間違っていると思います。そう問題を立てている限り どこかでブルジョア民主主義革命からプロレタリア民主主義革命への「強制転化」が必要になり その時民衆の意識からの乖離が生じると思います。また 客体的に問題を立てている限り、経験豊富な人の方が客体分析も優れているので 指導部絶対の官僚制を生み出すのではと思います。
だから ブルジョア民主主義革命とプロレタリア民主主義革命とを貫く主体=民衆の「赤いベクトル」を見つけ出し それを宣伝・扇動していくことだと思います。それは 民衆自身の「自己決定権の行使」つまり「社会・生産の主人公として自らを押し出す」ことだと思います。かつての「沖縄奪還」から「沖縄(民衆)の自己決定権支持」に転換した考え方だと思います。
SEALDsの中心的な人たちは 彼が指摘するように周りの「大人たち」の影響で確かにどちらを向いているのか分からない面がありますが 「民主主義とは何か?」のコールに続けて「これだ!」と唱和し、自らのデモを押しだしていました。ここに 自己決定権の行使につながる赤いベクトルを見いだそうではありませんか。
Posted by わいわい通信 at
00:03
│Comments(5)
2015年10月01日
新自由主義について
新自由主義について
―――――――――
先月号で 新自由主義とは「74、5年恐慌以降貸付貨幣資本(利子生み資本・金融資本)が基軸となった現代の資本主義・帝国主義において 貸付貨幣資本が自らの儲けを追求するための口実であり 虚偽のイデオロギーだ(理論ではない)」と述べました。新自由主義を思想・政策的にのみ見て、その基礎・実体である貸付貨幣資本を対象化しているとは思えない説が多々あるようで…。
宇野派の鎌倉孝夫が『「資本論」で読む金融・経済危機』(2009.6)を書いています。09年10月の「わいわい通信」にコメントを書きましたが そのときは擬制資本論(架空性)についてのみ展開し、新自由主義についてはまったく触れなかったので 今回彼の新自由主議論を紹介したいと思います。
本書の構成は Ⅰ:金融危機の発生 Ⅱ:金融危機から経済危機へ Ⅲ:金融・経済危機の原因 Ⅳ:金融・経済危機対策 Ⅴ:金融・経済危機の経済学 となっており Ⅲの第2章新自由主義の破綻 Ⅴの第1章新自由主義批判の理論的基礎 Ⅴの第4章3節新自由主義の歴史的位置 で新自由主義批判を展開しています。以下[ ]は松崎です。
「 この金融・経済危機[リーマンショック]は、新自由主義の世界的展開によ
ってひき起こされたものであり、この思想・政策自体の破綻を示すものといっ
てよい。…
新自由主義政策の推進による資本主義の世界的矛盾の爆発といってよい。」
「 新保守主義政権の下で新自由主義政策が展開された。その特徴は、①すでに
市場における対等の自由競争の条件がない(…)中で、… 弱肉強食の自由競
争を復活させ、巨大金融独占体の<自由>な活動を保証するものである。…
現実には全く実現しえない市場の自由競争を通した法則性(社会的均衡)確立
とか、効率的資源・労働力配分の実現とかを、ただイデオロギー的にふりまい
て、まさに巨大独占体の<自由>―<狼の自由>を実現するというのが、新自
由主義の自由である。…
②巨大独占体の<自由>を保証するためには、戦後体制の下で採られてきた
資本の<自由>な活動に対する規制を撤廃する必要がある。それは、規制・制
限をとり払って、大資本に最大の利潤獲得を実現させることを目的とする。反
面、労働者・農民・小零細企業者に対する保護規制は緩和され、撤廃される。
規制撤廃は、大資本の投資分野の自由化…から始まり、生活領域(福祉・医療、
教育領域の公的事業の解体と民営化…)から、「労働」領域(…)にまで及ん
でいる。その思想的根拠は、人間関係をすべて物と物の関係=交換関係として
とらえる、ということにある。
③ソビエト・東欧「社会主義」の崩壊と労働者、人民における社会主義意識
の衰退は、…資本の本質むき出しの活動に対する規制力を弱める。その上、官
僚制度の肥大化と既得権限の温存が経済の活性化を妨げているという認識が、
労働組合組織の既得権限に制約されて<実力>ある労働者が十分評価されない
という(誤った)認識にまで広げられて(…)、組合組織が解体化され、労働
者の中に弱肉強食の、互いを<敵>とする競争がもち込まれ、賃金引下げや失
業は自分の実力がないことによるのだという自己責任の観念がもち込まれる。…
弱肉強食の競争、仲間を蹴落として自己の利益を図るという行動は、資本自
体の固有の行動なのであるが、それが労働者の中に浸透する。資本主義の下で、
労働者は団結連帯して資本に抵抗しなければ生きられないという労働者として
当然持つべき意識と行動が解体される。…」
「 第1に、… いま明らかにすべきことは、新自由主義の思想・政策とともに
その下で露わになった大資本=金融資本の本質なのであるが、まずその思想・
政策に関して留意すべき点を指摘すれば、①新自由主義思想・政策自体、決し
て資本主義の一時代、自由主義段階とか帝国主義段階に対応する新段階を画す
るものでは全くないと、ということである。というのはこの思想は思想として
も不徹底であり、首尾一貫性がない…。またその政策としても不徹底であり、
統一性がない。一方で国家の経済への干渉・介入を否定するが、大資本の自由
を実現するうえに、国家の暴力が必要な時には暴力を行使してはばからないし、
自己の経営の存続が危うくなると、なりふり構わず国家の援助を求めるのであ
る。…
②… 新自由主義は自由競争の徹底、そのための資本活動に対する規制の撤
廃を要求するのであるが、そもそも今日の現実には自由競争の条件が欠如して
いる。個別資本間の資本規模、生産性の格差は解消しえないし、…。だから現
実には新自由主義は、資本の活動に対する規制緩和・撤廃によって大資本=独
占体の自由、まさに<狼の自由>を野放しにしたのである。
③新自由主義思想の基本は、すべての人間関係をモノとモノの交換関係とと
らえるところにある。… この思想は、人間をモノにしてしまわないと完成し
ないというそれ自体全く実現不可能な、誤った思想なのであるが、…。
第2に、新自由主義思想・政策の破綻に関して。… 今回のこの危機を新自
由主義思想の破綻を示すものというとらえ方は正しくない。とらえるべきこと
は新自由主義政策によって制約をとり払われたことから発現した資本、大資本
の本質そのものに起因する危機だ、ということである。…
第3に、… 金融・経済危機が深刻化しつつある中で規制やルール・モラル
を求める要求が強まっているけれども、大資本、金融資本の現実の支配をその
ままにした上での規制は、…何ら実効性がないし、かえって根底にある悪の根
源を隠蔽するものになる。」
「 資本のグローバルな展開の中で、さらにこれを徹底的に進めようという思想
・政策としての新自由主義が跋扈した。新自由主義の思想・政策を批判したり、
その流れを押しとどめようとする思想・政策は、社会の発展を求めない保守で
あり、もはや時代への適応力を失ったものとされた。…
しかしこの新自由主義の流れの下で、いまや社会的経済的矛盾が噴出してい
る。サブ・プライムローン問題は、グローバリゼーションと新自由主義の世界
的展開自体の下で生じている問題であり、端的にいえばこんにちのグローバリ
ゼーションの擬制性、虚構性という正体を暴露するものである。…
ブッシュ米帝国主義政権が強行しているアフガニスタン、イラクへの軍事侵
略は、新自由主義の展開が国家の暴力なくしてはありえないという、その本質
を示すものである。… 新自由主義は暴力なしには進まないのである。しかも
この侵略戦争に伴う厖大な戦費(ドル)の支出が、サブ・プライムローン問題
に現れる世界的証券投機をもたらす世界的なマネー過剰の原因なのである。…
… 労働者の資本家との雇用関係は、物と物の交換、すなわち『市場経済』
の関係ではなく、労働者にとっては人間としての生活がかかっている。つまり
物の交換=所有権・物権ではなく、人権に関わることなのである。だからいか
に『公正』とされても『市場経済』的な関係では対応しえないことをこそ明確
にしなければならない。」
この直前の段落は 「ルールなき資本主義」「モラルなき資本主義」「公正なルールを」と新自由主義を批判している主張への批判です。
「 証券―金融商品が … 売買の対象になる以上何らかの『使用価値』がなけ
ればならない。それは唯一、価値を増やすということだけである。有用物(財
=富)と全く関係のない価値(フィクションの価値)が増えるとしてこれを所
有し、もっと増えるだろうと予想する者がこれを買う。しかしこの売買で利得
がえられる者があっても、その売買自体富の増加も、価値の増加ももたらさな
い。だからこの売買を通した利得は、他の者の、社会の所得からの収奪による
ものである。
この株式・証券売買を営業とする資本が形成される。[仲介の手数料ではな
く 自ら売買を行い(投機で)利得獲得を行うということ]… ここから形成
される重大な問題が、株価至上主義とその下での利潤至上主義である。… 株
式価格を上昇させることだけを目的として企業経営に徹底した利潤至上主義を
求めることである。… 社会的に有用な物の供給とか、労働安全、環境保全等
企業の社会的責任は放棄され、価値増殖・利潤拡大だけが求められる。その下
では売れさえすればどんな商品でも、様々な偽装をこらしてさえ、売る。本来
の使用価値についての関心は失われる。…」
安倍の経済政策・アベノミクスが この最も良い例であることは 言うまでもないでしょう。日銀を巻き込んだ政策で 株価だけは上がりましたが GDPは横ばいのままで 円安にともなう輸入食料品の高騰で、低所得者にとっては生活苦が襲っています。
「 新自由主義の政策は、資本主義の最期の時期に咲いた徒花でしかない、とい
うことである。しかし私たちとしては、…新自由主義の思想が、多くの労働者
・民衆の中に浸透した、という恐るべき現実である。いまや労働者・民衆の中
にまで、弱者をいたわるどころか、弱者であることをいいことに、徹底的に弱
者を傷めつけ、奪い尽くすという風潮が生じている。<弱肉強食の競争に勝た
なければ>という資本家的観念が、ここまで労働者・民衆を侵している。」
以上 長々と抜粋紹介しましたが 先月号の私の見解と読み比べてもらえば 論旨はほぼ同じだと判ると思います。
グローバリゼーションで資本が世界中を駆けめぐっていると言っても 生産資本は生産地に固着し、商品資本は消費地に固着しています。儲るところを求めて駆けめぐっているのは貸付貨幣資本なのです。
低い利率でお金をかき集めより高い利率の所に貸付け、その差で儲けを出そうとしているのが貸付貨幣資本なのですが 貸付貨幣資本どおしの競争に勝つためには他人のお金をより多くかき集めねばなりません。だが 集めたお金を誰かに貸し出さなければ、つまり貯め込んでいるだけでは 貸付貨幣資本は倒産するしかありません。貸付貨幣資本は 社会全体が過剰生産に陥り、産業資本からの利子が期待できなくなると 一方で投機に走り、他方で新たな儲け口を作り出そうとします。新たな儲け口作りの典型が民営化です。新たな儲け口が見つかったとき 多くの貸付貨幣資本がそこに殺到し、バブルが引き起こされます。だが その対象自体が過剰生産に陥りだすと 売り逃げる貸付貨幣資本が現れ、バブルは崩壊し 逃げ遅れた貸付貨幣資本は倒産のうき目にあいます。全産業への波及を恐れ、銀行や保険は倒産させる訳にはいかないと 政府は 国債発行による公的資金をつぎ込みます。議会の承認があれば幾らでも国債発行は可能だといっても 国債の利子は税金からださねばなりません。大量に国債を発行すると 当然国債の価格は下がり、利子率は上昇します。しかも 集められたお金はすべて貸し出されているので 新たな追加が必要になると利子率は急激に高騰します。利子率が高騰し、国債の利払いができなくなったとき 政府(国家)は破産・倒産せざるをえません。その危機が目前にきているのに 資本主義・帝国主義である限り これまでの対応策を繰り返すしかないのです。「われ亡き後に洪水よ来たれ」です。その典型が原発で 明日の地球がどうなろうが今日儲れば…です。
貸付貨幣資本は 架空資本であり、生産(実体経済)にとっては全く要らないものです。だから 経済が危機に陥ったとき 貸付貨幣資本(銀行など)を救済するのではなく、それを破産・倒産させる(なくす)ことが 未来社会への扉を開けられるのです。
―――――――――
先月号で 新自由主義とは「74、5年恐慌以降貸付貨幣資本(利子生み資本・金融資本)が基軸となった現代の資本主義・帝国主義において 貸付貨幣資本が自らの儲けを追求するための口実であり 虚偽のイデオロギーだ(理論ではない)」と述べました。新自由主義を思想・政策的にのみ見て、その基礎・実体である貸付貨幣資本を対象化しているとは思えない説が多々あるようで…。
宇野派の鎌倉孝夫が『「資本論」で読む金融・経済危機』(2009.6)を書いています。09年10月の「わいわい通信」にコメントを書きましたが そのときは擬制資本論(架空性)についてのみ展開し、新自由主義についてはまったく触れなかったので 今回彼の新自由主議論を紹介したいと思います。
本書の構成は Ⅰ:金融危機の発生 Ⅱ:金融危機から経済危機へ Ⅲ:金融・経済危機の原因 Ⅳ:金融・経済危機対策 Ⅴ:金融・経済危機の経済学 となっており Ⅲの第2章新自由主義の破綻 Ⅴの第1章新自由主義批判の理論的基礎 Ⅴの第4章3節新自由主義の歴史的位置 で新自由主義批判を展開しています。以下[ ]は松崎です。
「 この金融・経済危機[リーマンショック]は、新自由主義の世界的展開によ
ってひき起こされたものであり、この思想・政策自体の破綻を示すものといっ
てよい。…
新自由主義政策の推進による資本主義の世界的矛盾の爆発といってよい。」
「 新保守主義政権の下で新自由主義政策が展開された。その特徴は、①すでに
市場における対等の自由競争の条件がない(…)中で、… 弱肉強食の自由競
争を復活させ、巨大金融独占体の<自由>な活動を保証するものである。…
現実には全く実現しえない市場の自由競争を通した法則性(社会的均衡)確立
とか、効率的資源・労働力配分の実現とかを、ただイデオロギー的にふりまい
て、まさに巨大独占体の<自由>―<狼の自由>を実現するというのが、新自
由主義の自由である。…
②巨大独占体の<自由>を保証するためには、戦後体制の下で採られてきた
資本の<自由>な活動に対する規制を撤廃する必要がある。それは、規制・制
限をとり払って、大資本に最大の利潤獲得を実現させることを目的とする。反
面、労働者・農民・小零細企業者に対する保護規制は緩和され、撤廃される。
規制撤廃は、大資本の投資分野の自由化…から始まり、生活領域(福祉・医療、
教育領域の公的事業の解体と民営化…)から、「労働」領域(…)にまで及ん
でいる。その思想的根拠は、人間関係をすべて物と物の関係=交換関係として
とらえる、ということにある。
③ソビエト・東欧「社会主義」の崩壊と労働者、人民における社会主義意識
の衰退は、…資本の本質むき出しの活動に対する規制力を弱める。その上、官
僚制度の肥大化と既得権限の温存が経済の活性化を妨げているという認識が、
労働組合組織の既得権限に制約されて<実力>ある労働者が十分評価されない
という(誤った)認識にまで広げられて(…)、組合組織が解体化され、労働
者の中に弱肉強食の、互いを<敵>とする競争がもち込まれ、賃金引下げや失
業は自分の実力がないことによるのだという自己責任の観念がもち込まれる。…
弱肉強食の競争、仲間を蹴落として自己の利益を図るという行動は、資本自
体の固有の行動なのであるが、それが労働者の中に浸透する。資本主義の下で、
労働者は団結連帯して資本に抵抗しなければ生きられないという労働者として
当然持つべき意識と行動が解体される。…」
「 第1に、… いま明らかにすべきことは、新自由主義の思想・政策とともに
その下で露わになった大資本=金融資本の本質なのであるが、まずその思想・
政策に関して留意すべき点を指摘すれば、①新自由主義思想・政策自体、決し
て資本主義の一時代、自由主義段階とか帝国主義段階に対応する新段階を画す
るものでは全くないと、ということである。というのはこの思想は思想として
も不徹底であり、首尾一貫性がない…。またその政策としても不徹底であり、
統一性がない。一方で国家の経済への干渉・介入を否定するが、大資本の自由
を実現するうえに、国家の暴力が必要な時には暴力を行使してはばからないし、
自己の経営の存続が危うくなると、なりふり構わず国家の援助を求めるのであ
る。…
②… 新自由主義は自由競争の徹底、そのための資本活動に対する規制の撤
廃を要求するのであるが、そもそも今日の現実には自由競争の条件が欠如して
いる。個別資本間の資本規模、生産性の格差は解消しえないし、…。だから現
実には新自由主義は、資本の活動に対する規制緩和・撤廃によって大資本=独
占体の自由、まさに<狼の自由>を野放しにしたのである。
③新自由主義思想の基本は、すべての人間関係をモノとモノの交換関係とと
らえるところにある。… この思想は、人間をモノにしてしまわないと完成し
ないというそれ自体全く実現不可能な、誤った思想なのであるが、…。
第2に、新自由主義思想・政策の破綻に関して。… 今回のこの危機を新自
由主義思想の破綻を示すものというとらえ方は正しくない。とらえるべきこと
は新自由主義政策によって制約をとり払われたことから発現した資本、大資本
の本質そのものに起因する危機だ、ということである。…
第3に、… 金融・経済危機が深刻化しつつある中で規制やルール・モラル
を求める要求が強まっているけれども、大資本、金融資本の現実の支配をその
ままにした上での規制は、…何ら実効性がないし、かえって根底にある悪の根
源を隠蔽するものになる。」
「 資本のグローバルな展開の中で、さらにこれを徹底的に進めようという思想
・政策としての新自由主義が跋扈した。新自由主義の思想・政策を批判したり、
その流れを押しとどめようとする思想・政策は、社会の発展を求めない保守で
あり、もはや時代への適応力を失ったものとされた。…
しかしこの新自由主義の流れの下で、いまや社会的経済的矛盾が噴出してい
る。サブ・プライムローン問題は、グローバリゼーションと新自由主義の世界
的展開自体の下で生じている問題であり、端的にいえばこんにちのグローバリ
ゼーションの擬制性、虚構性という正体を暴露するものである。…
ブッシュ米帝国主義政権が強行しているアフガニスタン、イラクへの軍事侵
略は、新自由主義の展開が国家の暴力なくしてはありえないという、その本質
を示すものである。… 新自由主義は暴力なしには進まないのである。しかも
この侵略戦争に伴う厖大な戦費(ドル)の支出が、サブ・プライムローン問題
に現れる世界的証券投機をもたらす世界的なマネー過剰の原因なのである。…
… 労働者の資本家との雇用関係は、物と物の交換、すなわち『市場経済』
の関係ではなく、労働者にとっては人間としての生活がかかっている。つまり
物の交換=所有権・物権ではなく、人権に関わることなのである。だからいか
に『公正』とされても『市場経済』的な関係では対応しえないことをこそ明確
にしなければならない。」
この直前の段落は 「ルールなき資本主義」「モラルなき資本主義」「公正なルールを」と新自由主義を批判している主張への批判です。
「 証券―金融商品が … 売買の対象になる以上何らかの『使用価値』がなけ
ればならない。それは唯一、価値を増やすということだけである。有用物(財
=富)と全く関係のない価値(フィクションの価値)が増えるとしてこれを所
有し、もっと増えるだろうと予想する者がこれを買う。しかしこの売買で利得
がえられる者があっても、その売買自体富の増加も、価値の増加ももたらさな
い。だからこの売買を通した利得は、他の者の、社会の所得からの収奪による
ものである。
この株式・証券売買を営業とする資本が形成される。[仲介の手数料ではな
く 自ら売買を行い(投機で)利得獲得を行うということ]… ここから形成
される重大な問題が、株価至上主義とその下での利潤至上主義である。… 株
式価格を上昇させることだけを目的として企業経営に徹底した利潤至上主義を
求めることである。… 社会的に有用な物の供給とか、労働安全、環境保全等
企業の社会的責任は放棄され、価値増殖・利潤拡大だけが求められる。その下
では売れさえすればどんな商品でも、様々な偽装をこらしてさえ、売る。本来
の使用価値についての関心は失われる。…」
安倍の経済政策・アベノミクスが この最も良い例であることは 言うまでもないでしょう。日銀を巻き込んだ政策で 株価だけは上がりましたが GDPは横ばいのままで 円安にともなう輸入食料品の高騰で、低所得者にとっては生活苦が襲っています。
「 新自由主義の政策は、資本主義の最期の時期に咲いた徒花でしかない、とい
うことである。しかし私たちとしては、…新自由主義の思想が、多くの労働者
・民衆の中に浸透した、という恐るべき現実である。いまや労働者・民衆の中
にまで、弱者をいたわるどころか、弱者であることをいいことに、徹底的に弱
者を傷めつけ、奪い尽くすという風潮が生じている。<弱肉強食の競争に勝た
なければ>という資本家的観念が、ここまで労働者・民衆を侵している。」
以上 長々と抜粋紹介しましたが 先月号の私の見解と読み比べてもらえば 論旨はほぼ同じだと判ると思います。
グローバリゼーションで資本が世界中を駆けめぐっていると言っても 生産資本は生産地に固着し、商品資本は消費地に固着しています。儲るところを求めて駆けめぐっているのは貸付貨幣資本なのです。
低い利率でお金をかき集めより高い利率の所に貸付け、その差で儲けを出そうとしているのが貸付貨幣資本なのですが 貸付貨幣資本どおしの競争に勝つためには他人のお金をより多くかき集めねばなりません。だが 集めたお金を誰かに貸し出さなければ、つまり貯め込んでいるだけでは 貸付貨幣資本は倒産するしかありません。貸付貨幣資本は 社会全体が過剰生産に陥り、産業資本からの利子が期待できなくなると 一方で投機に走り、他方で新たな儲け口を作り出そうとします。新たな儲け口作りの典型が民営化です。新たな儲け口が見つかったとき 多くの貸付貨幣資本がそこに殺到し、バブルが引き起こされます。だが その対象自体が過剰生産に陥りだすと 売り逃げる貸付貨幣資本が現れ、バブルは崩壊し 逃げ遅れた貸付貨幣資本は倒産のうき目にあいます。全産業への波及を恐れ、銀行や保険は倒産させる訳にはいかないと 政府は 国債発行による公的資金をつぎ込みます。議会の承認があれば幾らでも国債発行は可能だといっても 国債の利子は税金からださねばなりません。大量に国債を発行すると 当然国債の価格は下がり、利子率は上昇します。しかも 集められたお金はすべて貸し出されているので 新たな追加が必要になると利子率は急激に高騰します。利子率が高騰し、国債の利払いができなくなったとき 政府(国家)は破産・倒産せざるをえません。その危機が目前にきているのに 資本主義・帝国主義である限り これまでの対応策を繰り返すしかないのです。「われ亡き後に洪水よ来たれ」です。その典型が原発で 明日の地球がどうなろうが今日儲れば…です。
貸付貨幣資本は 架空資本であり、生産(実体経済)にとっては全く要らないものです。だから 経済が危機に陥ったとき 貸付貨幣資本(銀行など)を救済するのではなく、それを破産・倒産させる(なくす)ことが 未来社会への扉を開けられるのです。
Posted by わいわい通信 at
00:03
│Comments(0)