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わいわい通信

2008年02月01日

情勢と主体の落差

情勢と主体の落差
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 新聞の1月から始まったテレビドラマ「鞍馬天狗」の紹介記事に 「幕末と現代は似ているという。いろんな価値観が流入し、混乱していた。それでも絶対的な良識、人間の尊厳は変わらない。正義は正義。…」と書かれていた。
 現代社会は 資本主義・帝国主義が マネー経済に突入し 詐欺と投機を全面化・前面化させて 生産そのものを混乱に陥れ・破壊し、弱者切捨ての格差社会を作り出しているので これまでの資本主義を是とする価値観が崩壊しかかっており 「幕末と似ている」は それほど外れてはいないと思う。
 しかし 資本主義を否定する次の価値観は共産主義なのだから 現在は 「いろんな価値観が流入し、混乱している」のではなく <正しい価値観が見失われ、価値観が喪失している>状況ではないだろうか。だから現在は 封建制最後の江戸の幕末と対比するよりは 次が明確になっていなかった封建制崩壊の始まりである鎌倉幕府・北条執権の崩壊の時と対比する方が より近いと思う。
 モンゴル来襲の戦争で疲弊し、北条一門独裁の強化につぐ強化で支配を維持してきた鎌倉幕府は 千早城に決起した楠木正成を攻めあぐんでいる間に 鎮圧派兵軍の足利尊氏が反乱軍に寝返り京都を制圧し、新田義貞が鎌倉を攻め落とすことで崩壊した。新田義貞がわずかな兵で挙兵すると 関東一円の不平・不満分子がこぞって参加し 数日後鎌倉を攻める頃には大軍になっていたと言われている。それほど人心は幕府から離れていた。だが勝利した反乱軍は 幕府をつくろうとする足利と天皇親政の楠木・新田の対立となり 南北朝から戦国時代の戦乱の時代を作り出した。
 この戦乱の時代は 織田信長による全国平定で終わりを迎えるが それは 信長が 熱田の港からのあがりで常備軍をつくり、岐阜・安土など制圧した拠点には楽市楽座をつくり道路を整備して商業を発展させ、外国貿易の拠点・堺を取り込むなど 発達してきた重商主義・商人資本に依拠することで可能となった。だから信長は 封建制の最後の形態である絶対王制を志向していたと言えます。
 共産主義を実現する思想・理論であるマルクス主義は ソ連の崩壊と中国の資本主義への屈服で権威と存立条件を失ったにもかかわらず その後継を自認する共産党は 依然として存在しています。他方 とって替わろうとした新左翼も 70年頃とはうって変わって、最近では停滞しているのではと思われる状態です。
 何故なのか。信長が重商主義・商人資本に依拠したように 共産主義を実現するためにはマルクス主義に徹底して依拠しなければならないのに そのマルクス主義が 第二インターとスターリン主義に歪曲されたまま 現在に至っているからなのです。これまで流布され、正しいと思われてきたマルクス主義は 革命実現論と未来社会論を明らかにした<晩期マルクス>を否定した代物です。だから 革命の実現が直接課題にならなかったこれまでは それでも民衆決起の糧になっていましたが 革命を提起しなければならない現在では 役に立たない、あるいは反動的なものになってしまうのです。エンゲルスが『ゴータ綱領批判』の序文で書いているように 第二インターの中心・ドイツ労働者党(その後ドイツ社会民主党と名称変更)は 15年間も このマルクスの批判原稿を公表せず、無視し続けたのです。彼らが マルクス主義を語りながらも この点ではマルクスと違っていたのです。またスターリン主義は 一国社会主義論・二段階革命と平和共存を唱えることで 否定しています。他方新左翼も 宇野経済学を取り入れることによって 革命実現論と未来社会論の核心であり土台である資本制生産の崩壊論(行き詰まり論)を否定し 未来社会は「資本論の裏返し」で「高次段階を目標に運営していく」などとごまかしているのです。マルクスの論理そのものが そのまま実現論(打倒・移行論)であるにもかかわらずです。
 冒頭述べたように 資本主義のマネー経済が 自らの存立基盤である資本主義の生産と経済を破壊せざるをえなくなったということは 資本主義そのものが自己否定の段階に至ったということであり それは革命の実現が問われる時代に入ったということです。
 いま サブプライムローンを引金とした世界経済の混乱と危機に ほとんどの人が「実体経済に比べてマネーが大きくなりすぎたことが問題だ」と述べています。だが 資金のショートを防ぎ、流動性を確保するための資金投入も 不良債権の累積による銀行の倒産を防ぐための[公的]資金の投入も どちらもマネーを減らすものではなく、逆にマネーを一気により大きくするのです。危機を回避する唯一の方法が危機の原因の増大でしかないという 資本主義・帝国主義は実に末期症状に陥っているのです。今や 資本としての資本は、つまりマネーは 『資本論』で言うと(仮空の)貨幣資本は 実体経済の外部にあって「肉瘤」のごとく実体経済に寄生し、実体経済の栄養をすべて吸い取っています。サブプライムローンの借り手を見れば明らかです。貨幣資本は 他人に貸し出さない限り持っているだけでは資本になりえないのです。その貨幣資本がどんどん大きくなっているから 本来ならローンが組めないような低所得の人にまでローンを組ませ 返済が滞ったからと身ぐるみ剥ぎ取り、路頭にほっぽり出しています。「もはやマネー・(仮空の)貨幣資本はいらない、切り取るべきだ」と声を大にして言いきらねばならないのです。人類にとって必要なのは 現実の生産つまり実体経済であって (仮空の)貨幣資本は全く要らないのです。株価が上がろうが下がろうが 直接実体経済には関係ないのです。証券を発行(借金)して会社を運営しているから また評価益・評価損と帳簿を仮空経済に合わせているから 問題になるのです。なくすべきものを 資金注入で支える必要など 全くありません。会社が負債をかかえて倒産した場合 労働者が職場を占拠できたら「労働者に経営者の負債の返済義務はない」と宣言できますが 倒産しかかっても社長任せにしていたのでは 首を切られるだけです。大恐慌でも同じです。労働者・民衆が その時経営陣任せではなく、自ら現実の経済・生産を握りしめれたら 実体経済は維持され ただ通貨と(仮空の)貨幣資本の価値が減少するだけなのです。
 先に 客体情勢は幕末だが主体・階級情勢は鎌倉の崩壊時だと言いました。また 「確かに資本主義は最末期にきているが 運動の方は停滞しているから 革命が実現できるとは思えない」と考えている人は 多いと思います。しかし 全ての党派が 晩期マルクスの革命実現論と未来社会論に立ちきって宣伝・扇動するならば 全ての労働者・民衆が革命の実現を確信し、全民衆によって運営される未来社会に希望を見いだし、陸続とした決起が始まります。その時 主体も一跳びに幕末に至り、情勢と主体の隔たりは一気に埋まります。革命を呼びかけてる人達が 楠木から信長に飛躍すれば 新田義貞軍と同様のことがおきるのです。つまり 革命は指呼の間にあるのです。



Posted by わいわい通信 at 00:11│Comments(0)
 
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